2010年7月2日 (金)
ディヴィッド・コレヴァーについてのエッセー

2012.7.2  ディヴィッド・コレヴァー

 今年も米中堅ピアニストでコロラド大学の准教授であるディヴィッドが帰ってきた。毎年この時期にコロラド州ボールダーからやってくる。もうかれこれ十五年続く我家の年中行事みたいなものである。一昨年は川崎ミューザ、昨年は東京オペラシティ、今年は神戸芸術センターでソロリサイタルを開いた。
 毎年、来日の一ヶ月ほど前に演奏曲目について自らが書いた解説文(プログラムノートという)を私宛に送ってくる。それを日本語訳するのがいつの間にか私の務めになった。樂理にもクラシック音楽にも疎い私が訳すのだから怪しいものだが、音楽専門の協力者がいてくれるので一安心している。普段、いろんなところでプログラムノートを散見するが、正直、読みづらくて味わい切れないものが多い。そのため私はせめて翻訳調を弱めて日本語文として自然になるように努めている。
 このプログラムノートを見るにつけ演奏者が選曲に並々ならぬ気を配っていることがよく分かる。軽妙なもの重厚なもの、印象派的なもの内省的なもの、抒情的なもの哲学的なもの、古典的なもの現代的なもの、よく演奏されるもの、滅多に演奏されないものなど、演奏時間も考慮しながら実にバランスよく組み合わせている。
選曲自体は来日の半年も前から決定し練習に励んでいる。しかし、日本の聴衆の多くは馴染みの曲には心を動かしても、あまり知らない曲は敬遠しがちで、公演近くなって曲目変更を迫ることがままある。演奏者にとってはおもしろくないどころか迷惑な話だろう。そうはいうものの私自身もその日本の聴衆の一人かも知れない。
 たとえば、今年の曲の一つ、ドビュッシーの「仮面」「スケッチブック」「喜びの島」は曲名こそ知っているが、曲メロディーが一向に浮かんでこない。プログラムノートではこれら三曲について、「どれにも旅行と海に結び付いた官能的感触がある」とか「ドビュッシーの水に因んだ曲には軍事的誇示とエロティシズムが妙に入り混じっていて…」などとあるので、その感触を実際に聴いて確かめようと身構えていたが、そんな感触は私には少しもしなかった。これではプログラムノートが泣くというものである。
 しかし、ドビュッシーが印象派の音楽家で、同時代の印象派の画家、モネやルノアールらの影響を受け、また象徴派の詩人、ボドレール、マラルメ、ヴェルレーヌなどと親交があったと知ると、にわかに分かるような気がし出した。反省によらず直観で束の間の印象をすばやく記録する態度、絵画にあっては光りと色彩で、詩にあっては言葉と韻律、抑揚で、また音楽にあっては響きと音色で、海や水に対する刻々と生じるイメージ、印象、心のさまを時間の画布に刻んでいるのである。
この際、フランス語の詩語感が強くこの曲に効いているのではないか。詩はどの国にあっても日常の言葉ではない。詩は普段どこかに潜んでいる心のさまを非日常的な言葉で呼び覚ます一種の霊感であろう。そしてその言葉はこの曲の場合、フランス語の発音、抑揚に乗って出てくる。フランス語の語感は英語の語感ではなく、いわんや日本語の語感とは丸きり違う。これがこの曲に反映していないわけがない。「旅行と海に結び付いた官能的感触」も「軍事的誇示とエロティシズム」云々ももし私がフランス語の語調を知っておれば掠めたかも知れない。
DVDを作成しながらあらためてこの曲をビデオで聴くと印象派の感覚が襲ってきてそのよさが分かるような気がした。
絵画は具象的な絵なら分かるが抽象画は分かり難い。詩も具体的なら分かるが抽象度が上がるにつれ分からない。音楽は歌詞のあるものはまだしも器楽となると頭から抽象的だから分からないといえば分からない。しかしプログラムノートを丹念に読めば理解に役立つ。
今回の演奏ではリストの巡礼の年、第一年:スイスがある。もしプログラムノートにあるバニヤンなどをよく知れば一層興味深いものになるだろう。知らない曲も積極的に聴いて自らの聴くレパートリーを広げなければならないと思っている。
(2010.7.2)

 ( 金 ) ディヴィッド・コレヴァーについてのエッセー