2009年5月30日 (土)
ディヴィッド・コレヴァーピアノリサイタル

2009年5月30日(土) 午後2時~  東京オペラシティ リサイタルホール

今年もディヴィッドがやってきた。今年はどんな音の小説を読ませてくれるのだろう。まだ去年の音が小説の読了感のように耳に残っている。今年は彼にとって初めての大舞台、東京オペラシティでの演奏である。この木の香が漂うようなこざっぱりしたリサイタルホールでどんな演奏を聞かせてくれるのか楽しみであった。

一種の「起承転結」というのだろうか、いつもながら演奏プログラムの構成にまず驚く。筆者の勝手な解釈だが、今回は「起」にブラームスのハンガリー歌曲による変奏曲Op.21-2、「承」にドホナーニのハンガリー民謡による変奏曲Op.29、「転」にM.カステルヌオーヴォ=テデスコのピエディグロッタ1924 ナポリ狂詩曲、「結」にシューベルトのピアノソナタ変ロ長調D.960をもってきた。 普通の小説もそうだが、見せ場は「転」にある。この「転」のために残りの起承結が用意されているようなものだ。今回の全プログラムはいずれも民謡や民俗音楽からヒントを得たもののようだが、今日の感想はしたがってこの「転」に焦点を絞ってみたい。

M.カステルヌオーヴォ=テデスコという名前はかつて聞いたことがない。まことに珍しいマニアックな作曲家なのだろうが、そのピエディグロッタ1924がディヴィッドの勤めるコロラド大学のピアノ曲コレクションに収められていると聞いて合点が行った。この曲はプログラム解説にもあるとおり、ナポリのピエディグロッタ教会で毎年催される世俗的で、徹頭徹尾イタリア的な歌謡祭にヒントを得ている。この歌謡祭をフラスコに入れて蒸留したら、こんなアルコール度の高い赤褐色や青褪めた色の音楽になるのかも知れない。「転」に相応しい実に賑やかな曲である。出だしは音の中に音、またその音の中に音と、音が二重、三重に聴こえ、祭の遠近感とコミカルさを感じた。そのうちに無機質の中に有機質な、逆に有機質の中に無機質な音が劇的に流れ、叙情性に乏しい機械的テンポのうちに独特のペーソスがあり、気性の激しいイタリア人の嫉妬や不貞、恋の叫び、失恋の悲嘆を感じさせた。

これらは今までの筆者が持つ音楽鋳型からははみ出しているが、この音楽のおもしろさはそこにこそあるのだろう。クラシックというと直ぐに美しい音色ばかりが浮かんでくる。甘い音、繊細な音、ロマンティックな音などポジティブな言葉で語られる音が多いが、その逆、ネガティブな言葉で語られる音色、つまり怒り、憎しみ、軽蔑、焦りなどを表わす音色があっても一向におかしくはない。まさにそれを思わす音色が今日はあった。この見せ場の「転」のために抒情豊かな曲が起承結の形で用意されていたと言ってよい。特にこの後のシューベルトの抒情豊かな曲を聴くとそう思わずにおられなかった。

筆者はいつも多くの聴衆の反対側に座ることが多い。 ピアニストの顔の表情が見たいからである。ディヴィッドの顔つきが弾く曲の表情と同期している。抒情的な曲には抒情的な表情が、深刻な曲には深刻な表情が、コミカルな曲にはコミカルな表情が浮かぶ。今日の起承転結から頭と胸と手が一体となったディヴィッドの表情にはその豊かさが溢れていた。       

 

 ( 土 ) ディヴィッド・コレヴァーピアノリサイタル