2017年8月30日 (水)
ノアンを訪れるに当たって

 

ノアンを訪れるに当って

 

今回、皆様とともにノアンの地を訪れることを大変嬉しく思います。私にとりましてもまったく初めてのノアンで不案内ですが、互いに助け合って楽しい旅にしたいと思います。

以下は旅に先だって私が私見を交えて綴った「旅のしおり」のようなものです。行きの機内ででも一読していただければ少しは旅の参考になるかも知れません。

 

私は、39歳で生涯を閉じたショパンにとってノアンという地が一体どのような意味を持ったのか、またあの美しい数々の曲を作曲したショパンとはどのような人物だったのか、何がその想像力の源泉だったのかなどが知りたくてこの「旅のしおり」をまとめました。

 

私たち現代に生きる者は、ノアンの地など特急で行けばパリからわずか2,3時間で行けるところと気安く考えてしまいます。が、今から180年前、ショパンが27歳の頃、パリからノアンまで行くには馬車で約30時間も掛ったようです。そのような思いも少しは馳せて、当時の世界を覗いてみたいと思います。

 

ショパンが友人のグジマワに書いているところによりますと、

「パリからシャトルーまでは急行の乗合馬車に乗ると、翌日正午までには着きます。

シャトルーからは、ラ・シャートル行きの駅馬車に2時間半乗るのです。この家(サンドの館)の前で降りてください。」(ショパンとサンドp74)

急行の乗合馬車とか駅馬車がどのようなものかはっきりしませんが、ショパンが乗った郵便馬車の場合は、時速約8キロでした。言うまでもなく郵便馬車は郵便物を運ぶ、軽量の馬車で、初めは三頭、やがて4頭の馬が引っ張りました。郵便物の他に三人の旅行者を乗せることができ、乗合馬車よりははるかに早く走りました。2リュー(=8キロ)毎に置かれた取扱所の間を50分から55分で、つまり、時速八キロ強で走りました。

 

何という長旅でしょう!休みなくガタガタ道を眠ることなく走りました。虚弱なショパンには耐えがたい旅だったと思います。

 

ノアンって? ショパンとどんな関係があったところ?

 

ノアンは、ショパンの恋人というか愛人のジョルジュ・サンドという女性の故郷です。ポーランド出身のショパンにとって、このような土地に来るとは、30歳近くまでは思いも及ばないことでした。

 

ではまた何で?

 

フレデリック・ショパンは1810年、ポーランドのワルシャワ近郊に生まれました。

10世紀頃に誕生したポーランドは、東はロシア、西はドイツ、南はオーストリアの大国に取り巻かれていて、歴史上しばしば版図を広げたり狭めたり、一時は地図上からその姿を消すこともありました、激しく盛衰を繰り返してきた国です。

現在のポーランドも第二次世界大戦後に誕生した国です。

 

ショパンが20歳になった1830年頃も、やはり周りの国に干渉され、ショパンは否応なく愛する祖国ポーランドを離れざるを得なくなりました。

一時、オーストリアのウィーンに出ましたが、ここはいわば敵国ですから歓迎されませんでした。

そこで次に向かったのがパリです。パリに向かう途中、スチュットガルトでワルシャワ蜂起(祖国奪回のため起こした運動)が鎮圧され失敗に帰したことを知ったショパンは愕然とし、もはやポーランドには帰れなくなりました。「革命のエチュード」はこの時のものです。

 

パリはどんなところ?

当時のパリはヨーロッパにおいてもっとも芸術の発達したところでした。フランス革命からまだ40年ぐらいしか経っていません。この革命が起こるまで気ままに国を支配していたのは王侯貴族で一般市民は惨めなものでした。

しかしこの市民革命で王族は処刑され、王政が共和政に取って代わり、新しくブルジュワ階級(富裕な市民階級)が台頭してきました。

その結果、音楽について見ますと、それまでの宮殿や教会に代わってブルジュワ階級の大邸宅の客間(サロン)が音楽の場になってきました。

音楽は、古い時代には「職人芸的うまさ」がものを言いましたが、新しい時代になると「芸術家の独創性」が評価されるロマン派の時代になりました。まさに個性の花咲く百花繚乱の時代です。

 

中でもピアノの場合はフランツ・リストとフレデリック・ショパンがその双璧でした。しかし両者の演奏スタイルは全く違いました。

ハンガリー出身のリストは音楽史上もっともモテた男で、リストが音楽ホールのエラール(製ピアノ)で華やかに超絶技巧を弾くと聴衆が熱狂し、はては失神する女性も続出しました。

 

かたやポーランド出身のショパンはホールではなくサロンの華でした。上流階級の大邸宅の大広間で夜な夜な夜会(スワレ)が開かれ、ショパンが演奏しました。

 

育ちの良さを感じさせる上品で優雅な物腰、洗練されたセンスの良い身なりをしたショパンが、プレイエル(製ピアノ)で哀切な美しい曲を奏でると、そこに集まった紳士淑女たちは感涙にむせびました。

 

1836年、秋の終わり、リストの愛人邸の夜会にショパンが招かれました。そこには音楽や絵画、あるいは文学に関心のある著名な文化人が多くいました。その中に葉巻を悠然とくゆらした、ジョージ(=ジョルジュ)という男性名をペンネームにした男装の麗人が座っていました。

フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドが初めて出会った瞬間です。ショパン26歳、サンド32歳の時です。

 

すらりとした中背、ところどころに灰色がかった金髪、暗い影を宿した鋭いまなざし、鷲鼻、その存在全体から感じられる、貴公子然とした男性、噂には聞いていたが、そんな異国から来たショパンを一目見て、この男装の麗人サンドは何を感じ、何を思ったでしょうか。

 

そのサンドは当時のヨーロッパにおいて最も醜聞で聞こえた女性でした。時代を先取りしたともいえるが、時代に反逆した女流作家であり女性解放論者でした。そんな女性が、こともあろうに当時最も社交界の寵児としてもてはやされたショパンにはじめて会ったのです。サンドが男性的であるのに対しショパンは女性的、この逆対照的な二人に社交界は好奇の目を向け、ゴシップのタネにしたのはいわば当然でした。

 

どうしてまたこの二人が…

サンドは18歳のとき愛情のないままノアンで地方貴族の男爵と結婚しましたが、狩猟だけに関心を示す凡庸な夫に愛想を尽かし、精神の昂揚と自由を求めて二十代半ばにパリに出ました.パリではいろんな男性とのとかくの噂も流れましたが、サンドが芯から愛する人は現れませんでした。

 

そのサンドがショパンを見て動かされました。彼女の鋭い感性が直ちにショパンの天分を見抜き、音楽家というより詩人としての真価をみとめたのです。

 

当時、ショパンには祖国ポーランドに許嫁になった、愛する女性、マリアがいました。しかし諸般の事情からついに正式の婚約に至らず意気消沈していました。

 

サンドはショパンに好きな人があることを承知しており、ショパンが自分とマリアのどちらを取るか、大変気を揉み、やきもきしていました。

 

サンドは、自分を決して移り気な女とは思っていません、本当に自分を愛してくれる人なら私も一途に愛するといっています。

サンドは、ショパンとマリアの仲が破談になったことを知って自分の意志を固めました。

 

ではショパンの方はサンドをどう感じたのでしょうか。

内気で神経質なショパンは、はじめこのサンドをいけすかない女と思ったようです。田舎にいるサンドから何度もノアンに来るように誘われましたが、ついにショパンは行きませんでした。

 

しかしその後、一年三ヶ月が経ってパリで再会して以来時々夜会で逢うようになりました。肌の艶には欠けているが、髪は黒く豊かで、その目には「イタリア人のような豊かな表情が浮かび、神秘的な」柔らかい光が漂っている、そんなサンドは外見に似合わず、意外に内面は女性的であり母性愛に富んでいることを発見します。お蔭でマリアとの破断の傷心も癒やされて、ショパンから積極的にサンドを愛するようになりました。

 

ちょうどその頃です。二人にとっての共通の友達、画家のドラクロワが、夜会で美しい曲を弾くショパンとその姿と曲にうっとりしているサンドのツーショットの図を描きました。その図はその後ショパンの部分とサンドの部分に切り離されて別々に違

う美術館に飾られました。

 

意気投合した二人は1838年の11月から翌春にかけて暖かいスペイン領のマジョルカ島で過ごすことになりました。一つにはパリでのとかくのゴシップから二人して逃れることでした。またもう一つは病弱なショパンとサンズの息子、モーリスの病気を癒すための旅でもありました。

 

しかし、この約5か月に及んだ旅は散々でした。この旅については後述しますが、病気は治るどころかむしろ悪化しました。地元民からは孤立、軽蔑の眼でみられ、無い無い尽くしの中で、苦しい旅を続け、ほうほうの体でフランスに逃げ帰ってきました。しばしマルセイユに留まって後、馬車で北上して落ち着いた先がノアンの地でした。

 

ショパンにとって初めてのノアン、自然豊かで緑が滴り、小鳥が囀る静かで平和な田舎でした。すっかり気に入り、それ以後七年間、毎夏パリからノアンにやってきては、静かなサンドの館で作曲に専念しました。彼の作曲した曲の七割はこのノアンで作られたものでした。

 

 

ショパンの性格と力の源泉

 

では次になぜショパンはあのような美しい曲を作曲し続けられたのか、その性格や力の源泉を考えてみたいと思います。

これを考えるに当ってはショパンの死(1849年10月)の直後からショパンについて書いたフランツ・リストの評が参考になりました。

 

病弱に生まれたショパン、死も覚悟

 

ショパンは生まれつき病弱で虚弱でした。家中が心配すると同時に、ショパン自身、いつ死ぬかわからないわが身をかこちながら毎日を生きてきました。これが彼の性格形成に響かないわけがありません。

 

苦しみから身を護るために不愉快な物には一切目をつぶり、耳を塞ぐ習慣を意識的に作り、喜びを与えない現実を離れて、夢想の世界に生きてきました.物静かで敬虔、勤勉で清純、他人に対して慇懃だがクール、それは秘密を愛するショパンのこのような背景からでした。

 

ショパンの家庭はフランスからポーランドに帰化し、ワルシャワでフランス語の教師をしていた父親と遠くには貴族もいた高潔なポーランド人の母親とピアノを弾く姉がいました。金持ちではないが敬虔なカトリック信者で、徳に篤い清純な一家でした。

 

このような状況と環境に生まれ育ったショパンは、生来肉体も精神も華奢で繊細、15歳ぐらいになった時には奥床しさも加わり、年齢も性別も超越した不思議に美しい顔立ちをしていました。まるでそれは中世の詩人が歌い上げた美しい天使の理想的生命を見ているようで、清純で、聖い悲しみを湛えていました。

 

ショパンのあのビロードのように優しい柔軟な発想も、埃を一度もかぶったことのない道端の草花のように、新鮮で清い想像力もこのような環境から生まれました。

 

ショパンは早くから音楽の勉強を始め、バッハの弟子だったジブニーから古典音楽の様式を学びましたが、真面目で良心的な彼は音楽家としての華やかな将来を夢見るよりも熟練した有能な音楽教師になることが夢でした。

 

ある公爵の経済的援助で公立中学に入り、そこで知り合った別の公爵兄弟の家によく休暇に行きました。ある時、その母、公爵夫人から、「あなたは詩人ね」と絶賛されました。ショパンは自分の天分が理解されたことの喜びをこの時はじめて味わいました。

 

この公妃のサロンはワルシャワでもっとも溌剌として洗練されたサロンの一つで、当時、華麗と洗練と雅到で鳴り響いた社交界の華でした。ここで名流貴婦人たちがしばしば顔を合わせました。

 

そんなわけでショパンは若い時分からこれらの貴婦人が踊るステップを演奏に表現してきました。踊りが高潮してくると、彼女らは熱情的な踊りの中にも優しい心を宿していることをショパンはすみやかに読み取りました。それはポーランドの詩的理想でした。

 

この詩的理想は、倦怠と幸福、激情と悲哀が織りなす複雑な理想でした。彼の指がピアノの鍵盤の上をさまよい、突然、哀切な和音を弾かせると、みなが感涙にむせびました。

 

この哀切さは何でしょうか。

 

ポーランドという国名はポラーニエ(平原の民)が語源です。その平原の一部が亡くなる、いや全体も亡くなる、その悲哀は如何ばかりか、周囲を海に囲まれ海に守られたわれわれ日本人には計り知れません。しかし、それは大きな会社に吸収合併された小さな会社の悲劇かも知れません。昨日まで有った会社が今日から無くなる、その悲哀の捨て場所は同じ境遇に会った者同士の集まりです。小さいながらもれっきとした明るい社風があった、それを懐かしむ気持ちが哀切な響きだったに違いありません。

 

20歳前後にして祖国喪失の悲哀を味わったショパンはそのピアノの調べに筆舌に尽しがたい詩情を込めました。ピアノの詩人と言われる所以でしょう。その祖国を想う気持ちは一生消えることがありませんでした。

 

ショパンの音楽は優しかった

 

このように貴族階級と常に交わった環境から、ショパンはいよいよ貴公子然とし、所作振る舞いも上品でかつ優雅、身の回りのセンスもよかったものと思われます。ピアノの才には天分がありましたが、憧れたのはモーツァルトで、楽想が逞し過ぎるベートーヴェンや悲嘆に暮れ過ぎるシューベルトは彼の好みではありませんでした。

 

パリに出てきてからショパンは多くの貴婦人にピアノを教えました。噂が噂を呼んで貴婦人が集まってきました。その第一号が何と大富豪のロスチャイルド夫人でした。そのレッスン収入はコンサートのそれをはるかに上回りました。

 

ショパンの詩情に殊の外強く打たれたのはサンドでした。ショパンの演奏を初めて聴いたサンドの眼は真っ直ぐにショパンに向かい注がれていました。ショパンも直感でこれでサンドが只者でないことを見抜きました。

 

ジョルジュ・サンドとはどのような人物か

悪しざまに言われることの多いジョルジュ・サンドですが、その生い立ちを辿ると彼女の宿命がよく分かります。

 

生まれはパリですが、育ちは今回行くフランス中部の農村地帯、ノアンで、少女時代は野生の少女でした。複雑な家系と家庭事情から幼い頃からいろんな局面に立たされ苦悩は絶えませんでした。それだけによく気が付き、よく気が回る、非常に賢い、感受性に富んだ少女でした。長じて女流作家になりますが、彼女の書いた田園小説は多分に自叙伝的で、それを読むと彼女の若い時分がよく解ります。

 

その一つに、主人公が自分の少女時代に重なるという「愛の妖精」があります。この主人公は少女ファデットですが、これを読むと幼い時から実によく他人の気持ちが分かる、まことに賢い少女だったことが解ります。ラ・シャートルには同名のホテルがあります。

 

サンドは世故にたけた女性ではありましたが、田舎育ちだけに夜空に輝く星月に夢を繋ぐような一徹な純情、詩情、理想を抱いていました。この清純さに応えられる男性はショパンが現われるまで現われませんでした。

 

マジョルカ島の旅はどんな旅だった?

 

同じような清純さと詩情を持ったショパンとサンドは共通の理想卿、「幸福の島」、マジョルカ島に旅をします。パリの社交界に疲れ、病気を病んでいたショパン、同じく病気に悩んでいたサンドの息子、モーリスの健康回復を願っての旅でした。

 

時は1838年、ショパンが28歳、サンドが34歳の冬から翌春にかけての旅でした。

 

幾多の苦難をなめ地元民の嘲りと軽蔑の視線を浴びながら、この島で一冬を過ごしました。

 

たとえばこんな風です。

ショパンはある日、ひとりでマジョルカ島の中心、パロマから北へ18キロ離れた山中のヴァルデモーサ修道院へ、いつものように、スプリングのまったくない、きわめて原始的な馬車で、あちこちに並外れた険しい起伏のある、でこぼこ道を辿って行きました。

また、

サンドは一人で暮らすショパンが心配でなりませんでした。「大雨の続く中、人けのない修道院で一人どのようにクリスマスや新年を過ごしているのだろうか。」と案じ、また「ミサに一度も出ない異邦人のショパンにはだれも食料を恵んでくれず、廃墟となった僧院の壁を激しく打つ雨の音を聴きながら、いつも変わらぬ単調な日々を過ごしているに違いない、哀れなショパン」と想像するのでした。

 

12月21日、ついにショパンはプレイエル社からピアノの到着通知書を受け取りました。この待ちに待った楽器はスペインの税関に留め置かれていました。サンドは、

一日も早くショパンを喜ばせようと、土砂降りの中、一時的に晴れ間がのぞいた朝、12キロの道のりを馬車でパルマの税関に出向きました。税関では輸入関税として法外な金額を要求されました。激しく抗議しましたが、なすすべなく万策つきてパルマのフランス領事に力添えを頼みました。結局、入手できたのはそれから三週間後のことでした。

また、

「ショパンは、何一つ飾りのない、むき出しの漆喰の壁に囲まれた、わびしく陰鬱な部屋――その隅に置かれた粗末な寝台に病み衰えた体を横たえながら、在りし日の自分、シャンデリアがきらめくパリのサロンで、衣擦れの音と賛嘆のため息を、背後に感じながら、ピアノに向かっている自分の姿を、どれほどの焦燥の思いで、深い闇の中に凝視していることだろう。」と、サンドは思いに耽り、「今のショパンにできることは、体を疲労困憊させる激しい咳や熱にもかかわらず、粗末なマジョルカのピアノを使って、『プレリュード』を完成させ、一刻も早くフォンタナに送ることだけだった。」とサンドは述懐しています。

 

サンドは旅の終わりにこのようにいいます。これまでの旅で最悪。地獄のような悲惨な状態でした。嫌悪感を抱くような土地柄と気候、不誠実で野蛮なカルタゴ人、狂信的なスペイン人、陰口どころか、石を投げてわれわれを迫害しました。おかげで病気になるは、物は盗まれるは、搾り取られるはで散々、ぼろを着て憂鬱な気分で帰ってきました。

といいつつ、一方では、

でもマジョルカは世界一美しいところです。椰子、アロエ、レモン、オレンジ、サボテン、何と見事な植物相でしょう。地中海、海岸、アラビアの建造物、廃墟となった修道院、何という美しさでしょう。何という静寂、人気のなさでしょうか。

 

当時にしてもあまりにも悲惨で過酷な旅、今日のわれわれには信じられない旅ですが、サンドはこの旅を最後に次のように総括しています。

 

「この隠遁生活のおかげで与えられた自由、これに私達は大満足しています。仕事を持つ身の私達には、人生のなかのこうした詩的、ポエティックな幕間は、ほんの一時的な休息に過ぎません。この心地良い静寂、誰にも乱されない落ち着いた隠遁生活、この後に、再びパリの生活が始まるかと考えると、それだけでぞっとします。けれども、人類が遂げている進歩の光景を何一つ目にすることなく、いつまでもここに暮らすことを考えると、これまた死ぬほど怖しい気がします。発達の遅れた民族がどんなものか、みなさんの想像を絶します。」と。

 

それにしても、なぜ、このような過酷な旅を「幸福の島」と名付けたのでしょうか。ここにこそこの二人の真骨頂が凝縮されています。それを一言でいうと二人とも詩人だったからです。

 

「幸福な島」へと、魔法の貝に身を委ねたサンドには現実の生活は霧のようなものでした。サンドは暗い森に沈む月の光を見ては、あの遠い国へ一緒する男性が現われないかと強く望んでいました。そこへ現れたのがショパンだったのです。ショパンは形而上的な天上の世界に接している「不可能」なものを夢のように追い求める芸術家でした。

病身だったショパンがこの旅で一時的なりとも生気を取り戻したのは、単に気候の所為ばかりでなく、彼は、むしろこの旅を人生における最高の魅力ある旅と心得、生きようと思ったから生き残った、その意志力の強さが肉体に好影響を与えないはずがありません。彼の最も輝かしい内的な光がこの時ほど輝いたことはありませんでした。

 

そしてサンドはショパンが病気の間、片時もその枕辺を離れず、母親の気持ちになって第三の子どものように扱いました。またショパンはショパンで献身的に自分の面倒を看てくれる母性的なサンドを献身的に愛しました。

 

マジョルカ島を離れ、フランスのマルセイユまで帰ってきました。そこからノアンまでは馬車で一週間です。ローヌ河沿いを北上し、馬車はついに、サンドが愛してやまない<黒い渓谷>に入りました。そして6月1日、夕刻、馬車は城館の鉄格子の大門の前に止まりました。

とうとうノアンに戻ってきました。申し分ない気分。美しい田舎、ヒバリ、ナイチンゲール、緑滴る中で旅の疲れを癒した二人でした。ノアンは平凡そのものですが、二人にとってはまさに理想郷でした。

 

今から行かんとするノアンはそういうところです。みなさん、われわれがショパンやサンドになってこの地を追体験しようではありませんか。

 

ショパンにとってノアンはどんなところ

苦くも自由な旅体験をしたショパンにとってノアンはどう映ったでしょうか。

 

美しい自然に囲まれた静かな生活、きっとショパンは喜んだに違いありません。しかし時間が経つにつれて田舎暮らしは単調で退屈になってきたかも知れません。なんといってもショパンは都会育ち、パリの賑やかさや社交界の浮き立つような華やかさに慣れ親しんできたのですから。

 

しかし、とにかく朝から晩までピアノに向かって創作に打ち込めたこの地に心底、満足していたでしょう。

おわり

 

(中西隆夫 2017年7月10日記す)