2017年8月29日 (火)
フランス中部、ノアンに旅して

438162377f7365f5ddb493adeb7de806[1]ed7a8f31f6c463ba8b77b1497eb97764[1]5e602816c093043c965f0de1b16f1754[1]e97a147555b86e15774715b0a6fc6319[1]7432b32bce101860193a92598b806c8e[1]49725a4a99cb221e4e47e7705f3edbb5[1]e2cbc361f6ae94999a5f4412f89b0e17[1]

写真付き

はじめに

この8月下旬、バラードやノクターンなどの名曲で知られるピアニストで作曲家の、フレデリック・ショパンとその愛人、ジョルジュ・サンドの軌跡を追ってパリとそこから3時間南下したフランス中部、ノアンを訪れた。今でこそ3時間そこそこで行けるところだが彼らの生きた19世紀中頃はパリから馬車で30時間も要した草深い田舎だ。

パリ生まれながらこの田舎育ちのサンドがワルシャワという都会出のショパンにパリで恋をし、二人して「幸福の島」マジョルカ島へいわば一種の駆け落ちをし、戻って落ち着いた先がこのノアン、サンドの郷だった。

19世紀前半、パリの上流階級社会で持て囃され過ぎて心身共に疲れ果てたショパンはこの地をこよなく愛し毎夏パリからやって来てはここで多くの作品を手掛けた。

一方、サンドはこの森深い田舎出ながらその賢明さでパリに躍り出て一世を風靡した女流作家でありフェミニストである。

このようなゆかりの地でパリ国立高等音楽院の作曲科とピアノ科のイヴ・アンリ教授がわれわれThe Music Center Japan のためにピアノセミナーを開いてくださった。

今回、初めて実際に訪れてみて、この地が喧騒な二十一世紀にあって十二,三世紀に逆戻りしたようなサンルーム的鄙びの世界であることに驚嘆した。印象派画家モネが好んで描いた風景がそのまま残り、その中にサンドの別荘もあった。

帰路、パリに立ち寄って半日過ごしたが、ここはノアンと真逆、田舎の鄙(ひなび)に対して都会の雅(みやび)があった。パリの石造り文化や文明の上に花咲いた芸術的境地を味わい、やはり人生には、ショパンやサンドのように、また今回招いてくれたイヴ・アンリ教授のように、雅と鄙の二つの世界が必要だなとつくづく感じた。

これを第一回に今後も続けて行くつもりでいる。下述するのは私の今回の旅エッセーである。参考になれば幸いに感じる。

 

 

 

 

 

フランス中部、ノアンへの旅

1.旅の序奏

パリ、ド・ゴール空港を後にしたのが8月22日の午後8時半、一行12人はタクシーに分乗してホテルに向かう。午後9時近いというのに空は薄赤紫色、空港から市内までおよそ45分、しばらくは殺風景が続くが、市内に近づくに連れ、パリらしい雰囲気が漂い始める。背の高い街路樹が多く、その間から先端がチムニー(煙突)で凸凹した茶褐色やベージュ色の建物が覗く。セーヌ川を渡ってしばらく行くと目指すプルマン・パリ・ベルシー・ホテル(図1)があった。女性に人気の垢抜けした四つ星ホテルだ。

 

2.フランス中部へ
明けた翌朝は薄ら寒い。ホテルから10分足らずの古いオーステルリッチ駅から頑丈な背の高い列車に乗り込むと、やがてアナウンスも何もなく静かに滑り出した。

フランスの中部を旅行するのは初めて。どのような景色、光景が待ち受けているかと好奇心をそそるが田園風景(図2)が広がるばかり。見渡す限りなだらかな、波打つような平原、時々田畑に高い潅木が一列に並ぶ緑の森林が続く。牧歌的な風景だ。おそらく今走っているこの路線はショパン時代には馬車が走っていた道に違いない。そうだとすればショパンが見たと同じ風景を見ていることになる。

 
3.パリから南下2時間

シャトールーからラ・シャトルへ

2時間15分でシャトールー駅に着く。迎えのマイクロバスが平原の一本道をひた走る。ノアンを通り越して45分でラ・シャトルという名の小さな町に着く。町の入り口に宿舎、ホテル・リオン・ダルジョン(銀の獅子ホテル)(図3)はあった。
あぁ、なんという鄙びだろう。この言葉以外に見つからない。この地を訪れる人は音楽家かル・マンのラリー関係者ぐらい。ショパンとその愛人ジョルジュ・サンドゆかりの地、ノアンに近くこの町でピアノフェスティバルがよく開かれたり、この町がパリからニースに抜けるラリーの中継地だからだ。

もうこの鄙びにぞっこん惚れ込んでしまった。ともかくここでは時間が止まっている。明るく広い田園地帯の中にすっぽり佇む別世界だ。現代という名の騒々しさから隔離されたサンルームのような存在、タイムマシンに乗って一二,三世紀の中世に戻った感じ、それはショパンやサンドが生きた十九世紀と言い換えてもよい。なにせ時間は止まっているのだから中世も近代も変わらない。パリから馬車で30時間も掛けて来た土地柄だ。

ただ現代の乗り物ではあっという間の3時間で来てしまうから頭が容易に現代から中世に切り替えられない。慌ただしい現代がそのまま残ってしまう。さらに日本人はランドマシンに乗るのも下手だから、ここがフランスの片田舎であることを忘れてつい日本感覚で物事を見てしまう。ともかくこの一週間は家族がたむろする居間ではなくて、家族から離れて憩うサンルームの図にしなければならない。とはいうものの、スマホやタブレットを手放せない現代っ子であることも事実、否定はできない。
 

4.投宿ホテルの佇まい

 このホテルには「離れ」(図5)のようなところがある。そこがわれわれの宿舎で、全部で十部屋が用意されていた。二台の縦型ピアノと一台のグランドピアノが置かれ時間を決めて練習したりレッスンを受けたりする。三日間毎日、イヴ・アンリ教授(パリ国立高等音楽院で文化勲章受章者)のレッスンが受けられるのだ。
観光組の私はどうするか、何を観光するか、そもそもそう考えるのが間違い。サンルームに来た以上あるがままのこのサンルームを探索すればよい。ホテルの野外プール傍の長椅子(図6)に横たわって顔を上に上げて天を見渡す。何の声もせずのどかなものだ。クリスマスツリのような左右対照の大木の枝ぶりを見る。そよとも動かない。高い空には午後の薄雲がゆっくり流れ、白い一筋の飛行雲を残し、ぐんぐん青空を切り進んでいく飛行機一機、豆粒のように見える。広い敷地の傍らには小さなアンドル川(図4)が静かに流れ、水魚のオブジェ(図8)が置かれ、小魚の泳ぐ姿が黒い影となって水底に映っている。(図7)先ほどアンリ教授がこの川の右手を上っていくと見どころがあるよと言った。

 

5.ラ・シャトルの町の表情

 

さっそくタブレット片手に一人ぶらぶら散策に出かけた。全てが中世のままだ。アルカイックな灰褐色の、今にも剥げ落ちそうな建物が並ぶ。曲がりくねった石畳みの狭い上り坂に沢山の乗用車が駐車したり、ノロノロ走っている(図9)。現代文明が顔を出すのが邪魔だが、レーサーの町だからと辛抱する。あの高いところに細長いゴシック建ての教会の塔が見える(図13)。あの辺りが町の、いや、村の中心だろうと見当を付けて、西日に照らされた建物の黒い陰を踏みながら上って行く(図12)。やがてマルシェ広場に出る(図16)。いかにもヨーロッパの村だ。本屋があり薬屋がありレストラン(図11)がある。が、コンビニはない。古い建物と建物の間の何気ない辻が思わぬ古拙な表情(図10)を見せ、二階建てのベ-ジュ色した建物の窓辺に飾られた赤いバラが微笑みかける。
翌朝もここにAさんとFさんの三人で来た。朝の陽光が眩しい。教会の内部に入った。二人は神戸女学院の出身。ここでくしくも三位一体を表わすミツバのクローバーの校章を思い出したらしい。ゴシック型の内部は静謐で白い雰囲気、周囲のステンドグラスは濃いと言うより薄い色調(図15)、やはりここはフランス的だと思ったものだ。日本の急須や湯呑み茶碗を売っている店があった。

ここにはジョルジュ・サンド博物館(図14)がある。ある店に入って店員にフランス語で道を尋ねたら一発で通じたのがうれしかった。しかし博物館まで来ると、今は夏休み、また来年四月にと張り紙がしてあっていささかショックだったが、博物館の前へどこからか一人の老人が現われ、ひと束の町の案内パンフレットをくれたのが情味に触れるようで嬉しかった。

今回のフランス中部、ベリ県はローマ期の名残りのようなところ。滞在しているこのラ・シャトルの町も十二、三世紀に出来た町で、その中央に位置しているカソリック教会がそれを物語っている。日本でいえば鎌倉時代。この町はもともと皮なめしで聞こえた町だったらしい。どうやらそれ以来続く歴史的な茶紫色した石造りの建物も今ではボロボロ。今にも崩れ落ちそうだ。その中の菓子屋で同行者たちは買い物に余念がない。

 

6.ノアンのジョルジュ・サンドの館
今日は全員で7キロ先の「サンドの館」へ 一時間見学に出掛けた。
バスを降りて小道を行くと左手に古色蒼然とした一見土蔵風の小さな聖アンヌ教会(図17)、右手に立派な門構えのサンドの館(図19)、これら二つがそれぞれの存在を主張して対峙している風に見受けられ面白かった(図18)。見学者はかなりいた。ガイドに従って内部の一、二階を見学した。事前に本を読んでいたので今日はショパンの気持ちになって二階の南窓から鬱蒼とした木立の向こうに見え広がる田園風景(図23)を飽かず眺めた。あぁ、この南向きの部屋(図24)でショパンは懸命に楽想と闘ったのか、即興的に弾くのが上手かった彼も、楽譜にするとなるとこの部屋で四苦八苦していたのかとショパンの部屋を眺めつくす。

ジョルジュ・サンド(図20)はダイニング(図21)のここに座り、バルザックやドラクロワ、リスト、愛人のマリー・ダグー伯爵夫人をもてなしたのか。遺品が多くあるが、男性の私にはあまりピンとこないし興味もない。

館横の門から広い庭園に出る(図25)。夏の陽光を浴びてどこまでも続く田園。この館ができる前からあったと視られる古い土蔵のような家がこの館が出来ておもしろくないといいたげに座っていた。田舎には田舎の闘争があっただろう、そんな風情を感ぜずにはおれなかった。

たしかにここはショパンにとって心身ともに健康恢復に役立ち、パリの喧騒から離れてゆっくり寛げもしただろう。が、街ん奴のショパンは同時に退屈もしただろうと同情もした。またサンドはこんなところで父側の祖母と暮らしたのか。周りには何もないではないか。館の中のホームシアターで人形芝居(図22)でも見るのが関の山だったか。いやいや、小説家、サンドにとってはこここそが執筆する神聖な場所だったのだ。日頃テンション族の日本人もここらで数ヶ月過ごせば少しはノンビリするのではないか。あのうるさい駅や列車内のアナウンスから逃れて。そんなことを思わざるを得なかった。

 

7.ホテル・リオン・ダルジョン
滞在しているホテルについてもう一度書いておこう。このホテル 、ホテル・リオン・ダルジャンはこの町では一、二を争う人気の二つ星ホテルだ。パッと見た感じは旅籠風で気取りは微塵もないし、二階建てで低く威圧感もない。二つ星と言って馬鹿にしてはならない。気楽に落ち着ける感じで一般の日本人にはこのぐらいのホテルがちょうどいい。変に澄ます必要もないし肩も凝らない。四つ辻の角に位置し極めて便利。別館も道を隔ててあった。大小十部屋があり、そこがわれわれ一行の貸切りエリアだった。横には川が流れ、大きな庭にはプールが青い水を湛えていた。

食事時間には本館の食堂に行くが、ここで思いのままに時間を過ごすのもおつなものだった。一行のために設えられた対面式の長いテーブルで食事(図26)をする。ワインは赤とロゼ。朝は軽食でバイキングながら昼、夜はたっぷり料理が出る。グルメでない私には料理について云々する資格はない。が、こってりしたフランス料理はやはり肉が中心、面白かったのはわれわれ一行のためにメニューがフランス語と自動翻訳した日本語で書かれていたこと。吹き出しそうな、面白い日本語になっていた。たとえば、「よい妻のタレ」とかソーセージを「食肉加工」、さらに卵料理のことを「完璧な卵(家畜バイオ  M.ルノー)料理方法」とあり、そんな表現も話題にみなして食事をするのは本当に楽しかった。Wi-Fiも完備しているのでタブレットもスマホも大丈夫。プラグさえフランス用のCを使えば問題なし。

この町は田舎のくせにやけに車が多い。パリからニースへ抜けるラリー、ル・マンのラ・シャトル中継地(図27)だからだ。昨夜もホテル前に無蓋のビンテージ・カーが止まり、華やかな男女の一群がその周りを囲んで楽しげに話していた。町は刺激に乏しそうで、今月の今日26日、明日27日はサーカスがあると壁にチラシが貼ってあった。こんな風情が日本にあったのはもう50年も前のことか。

 

8.アンリ教授のレッスン風景
この辺でアンリ教授のレッスン風景を描いてみよう。大きな、三、四十疂ぐらいはある部屋に黒いグランドピアノがわれわれのために特別に運び込まれ、椅子が30個ほど並べてある。梁剥き出しの天井には大きな扇風機が二機回っている。グランドピアノの前にHさんが座り弾いている。その横で立ち居姿のアンリ教授が白いワイシャツにジーンズ姿でじっと耳を澄ましている。右手にペン、親指と人差し指を立て両腕で調子を取りながらピアノに合わせてリズムを取っている。その表情を見よ。じっと目を瞑って聴いているかと思うと、わずかに首を左右に振り大きな目玉をギョロつかせ、左右の手で調子を取りながら指は空間を鍵盤上よろしく柔らかに動き、時に素早く上下したり、円を描いたり、小刻みにゆっくり動いたりしている。ピアノが止まる。楽譜のある個所にペンをあてがい生徒と何事か話している(図28)。ピアノがまた動き出す。役者が変わった。今度はピアノにアンリ教授が座り、同じパッセージを弾く。こんな繰り返しだ。先生は今日も忙しい。われわれのために午前と午後、一定時刻に一定時間、教えては去って行く。一番後ろで聴きながら、先生の腕の動きを見るだけで曲のリズムやメロディが解る思いがした。

 

9.旅の意義

このような旅はいいものだ。忙しくトランクを詰め直す必要もないし、疲れに行くようなバス移動もない。みながピアノのレッスンを受けたり練習をしている間、こっちは部屋に閉じこもって、ジョルジュの気持ちになってこのような旅随筆を書いたり、撮った写真をもとにスケッチをしたりして悠然と時間を過ごす。スケッチでは色々気付くし、それがまたエッセーのタネにもなる。疲れたらベッドに横たわればよい。高齢のAさんが言った。いままで生きてきてこんなにゆっくりした旅はなかった。一番ゆっくり寝たし寛いだ。今回の旅は本当に命の洗濯になったと。

早くも今日はもうここラ・シャトルの最終日だ。午後2時からガルジレス方面に小旅行に出かけることになった。
 

10.ガルジレス、マネも写生にきたところ

 

15人乗りのマイクロバスで四十五分程離れたガルジレスの村に行く。その美しい盆地状の渓谷にジョルジュ・サンドの古い別荘があった。来た時と同じように灌木の茂った田舎道を進んで行く。舗装はしてあるものの一通で対向車線(図29)はない。二百年前は舗装もなく埃が舞い上がっていたことだろう。そのデコボコ道をガタガタと馬車に揺られて行き来したサンドやショパン、どんな思いがしたことだろう。昼間はまだしも夜はそれこそ真っ暗、林か森かも分からない、何が出て来てもおかしくないおどおどした魔の沼のありそうなところを夜を徹して小娘のサンドは隣村まで歩いて行った。進んでいる積りが堂々巡りしてもとに戻っていたと小説にはある。そんな「魔の沼」(サンドの田園小説)や「愛の妖精」のプチ・ファデットを想像しながらバスの彼方を見詰めていた。

なるほど当時の世界はこんな風景が当たり前だったのだ。それにしてもこんな環境で幼少期を過ごした物知らずの小娘、サンドがその賢い頭脳を使って、長じては小説家となり評論家となりフェミニストとなり男装の麗人となった。信じられない。パリの街から誕生したのならまだ解らぬでもないが、こんな田舎からこんな女史が、こんな女傑が出現するとは!!

そして、やがてショパンと知り合い恋に落ちる。幼い頃、この田舎で夜空に輝く月を見て、いつかあの月へ一緒に行ってくれる人はいないかと祈るような気持ちになったサンド、男遍歴を繰り返しパリで醜聞の絶えなかったサンド、その彼女がついに一緒に行ってくれる人を見付けたのだ。その人物こそショパンだった。そんなことを考えているうちにガルジレスの村に着いた。

日本のどこにもありそうな渓谷、たとえば箕面の滝辺りの風景だが家の形と佇まいはまるで違う。日本の田舎を走っていると、土蔵や黒塀のある大きな土色の庄屋を見るものだが、その趣きに近い。傾斜の鋭い茶褐色から焦げ茶色の屋根、そしてどの屋根の端には例外なくチムニー(煙突)が付いている(図30)。あちこち剥げ落ちたベージュ色の壁、窓辺や入り口に鮮やかな花々。日本の家は屋根も壁も灰っぽいがフランスの家は焦げ褐色っぽい(図31)。普段見るこれらの家色が無意識にあるいは深層心理的に貴我の性格に反映しているだろう。密集した村落にサンドの別荘があった。

屋内に入るとサンド所縁の遺物が置かれ、家系図や古びた写真、息子モーリスのデッサン画の数々が飾ってある。決して大きくはないこの家をモーリスの娘、オーロールが1961年死去するまで守り通した。

このサンドの家のごく近くにアンリ教授のよく知る城主の小さな城(図33、図34)があった。中に入るとこの付近を描いた油絵ギャラリーがあり、印象派、後期印象派の画家たちの絵が多く飾られていた(図35)。アンリ教授からこの辺りは絵になる処が多いので国中から画家(図36)が訪れると聞いていた。道理でいかにも印象派らしい絵が多い。あのモネもここにきて作品を残している。にわかにこの辺りに親しみを感じはじめ、この城で印象派、後期印象派の画集を25ユーロで一冊買った。今回の旅行の私の唯一のみやげだ。ページをめくると見覚えのある絵がいくつも出てきた。あぁ、ここがこれらの絵の発祥地だったのか。

しかしおかしい。そこに描かれた川がない。私としてはその川がぜひ見たい。バスの運転手に無理を言って少し迂回してもらうと、あった。あるにはあったが精々せせらぎ程度で(図37、38)もっと大きいのはここからもう少し遠くに行かなければ見られない。まぁ、見ないよりまし。しかしこんなせせらぎでも印象派の手にかかるとこんなにも多色なきれいな景色に化けるのかと驚いた。帰ったら私もここの景色を30号ぐらいで描きたい。

 

11.アンリ教授の家にて

 

そこから帰路についた。ラ・シャトルのホテルから約2キロ離れたところにアンリ教授の立派な家があり、そこに立ち寄り今回の旅のハイライトで仕上げともなる一行のコンサートを行った。大庭園の中にある城のような家、庭の一角にある納屋を改造した広い広い場所で6時半からコンサートが始まった。個人情報に当るので写真ともども詳細は述べられない。残念だが、ともかく19世紀に戻ったような鄙びた空間で弾き聴くコンサート(図39)はまた格別だった。終わって広い庭で交わしたワイン、アンリ教授の奥様、ミジョも現われ華やかさを加えた。その図はマネ描く「草上の昼食」だった。

 

12.ラ・シャトルよ、さよなら、ルヴワール、また来年


さて帰る日の朝が来た。ひんやりとした朝、イヴ・アンリ教授に見送られて帰路についた。さようなら、ルヴワール、またねラ・シャトル(図40)。バスは日曜市で賑わう村を通り過ぎシャトールーについた。日曜の朝、駅前の大きな教会(図41)の鐘が聖なる鐘音を響かせ心に残った。

 

13.パリ半日観光

パリのオーステルリッチ駅構内に列車が入って来た。暗く薄汚い。日本の明るいピカピカした清潔な駅とはまるで違う。どちらが好きかは人の好みによるが、私にはこの無造作な暗さの方が往年の映画を見ているようで匂いが漂う。馬車に揺られてクタクタになりながらパリに戻り街並みを見た瞬間、ショパンにはどんな感慨が走っただろうか。やはり街はいいと思っただろうか、いや田舎がいいと思っただろうか。私とて一端の街ん奴だ。どちらもいいとのアンビバレントな気持ちになった。ショパンも同じ気持ちを抱いたのではないか。
ホテルに荷物を置いて今日半日のパリ観光に出掛けた。地下鉄に乗り行く先はショパンの墓である。うちそとともに清潔とは言えない汚い地下鉄(図42)に乗って降りるとすぐのところに大きな墓地があった。建設現場の仮トイレか電話ボックスのような、大きさの墓標箱が並んでいる。あった(図44)、フレデリック・ショパンここに眠ると。胸像が載った暮石には生年月日と死亡年月日が刻まれ、供えられたばかりの赤い花が置かれてあった。結構多くの人が訪れていたが、手を合わす姿はない。そのショパンの暮石から10メートルと離れていないところにK.S氏(日本人ピアニスト)の暮石があったのが妙に印象的だった。

次に向かったのはマドレーヌ寺院。ここにショパンは祀られている。随分と大きい寺院でカメラアングルに入らない(図45)。静謐な内部に入ると天井の丸ドームにくすんだ美しい絵が描かれていた。が、ステンドグラスは見つからない。入り口上部に大きなパイプオルガンが鎮座していた。

次はショパンが最後の息を引き取ったアパートのあるヴァンドーム広場前(図43)。ショーネという宝石商の二階(図46)にその部屋はあるが、夏休みにつき閉店していて残念ながら見学はできなかった。パリは現役時代に一度来たことはあるがそれ以来なしで不案内だが、その石文化、石文明にはあらためて驚嘆した。フランス人と同じくシックではあるが頑固で強固そう。18世紀以来、このパリが文化、文明の鑑だったのが頷ける。街の建物はどれも美しく優雅で、高いばかりの摩天楼とは一味も二味違う品格がある。一軒のカフェ(図47)に入った。その辺のスターバックスではない。大げさでないつもりでいうが人生の余裕を感じる。ゆっくり憩える場所だ。こんなカフェが6千軒もあると聞いたが、文化文明に対する姿勢、いや人生観が違うと感じた。ルーブル美術館(図48)、セーヌに架かる最も古いポンヌフ(新しい橋)を見て(図49)ホテルに帰った。もうこの私には夜景見学に出掛ける元気はない。かなり歩き疲れた。倉庫跡の大衆向けに改造した大きなレストランで注文したフランス製の白ビールの美味しかったこと、料理に生肉のカルパッチョを選んだがそれが当たり、よくビールにマッチして全部平らげた。
パリの華やかさは抜群、18世紀のフランス革命以後、ブルジュワ階級が逸早く誕生したところ。夜な夜なスワレ(夜会)が開かれ、リストやショパンが社交界の華と持て囃された。リストが大ホール向きの派手さで売り、彼氏が出ると淑女が卒倒したという話もある。が、ショパンはもう少し控えめ目で穏やか。ロスチャイルド家の家人にピアノを教えたのがきっかけで社交界に噂が伝わり、次から次へと貴族夫人を生徒にしたという。

ホテルの壁に貼られたモノクロの写真には往時のパリが写っている。建物はベース変わらないが、街の表情は初期の車や市電で溢れている。これよりも以前のパリ。堅牢なあの建物、この建物に出入りしたショパンの姿を彷彿とさせる。ショパンはもともと北のパリと言われたワルシャワの出身。ある伯爵夫人に幼年期に詩人の魂の持主と褒められた逸材だ。幼少の頃から貴族社会に慣れ親しんで来たからパリの社交界に出ても大して違和感はなかっただろうが、人一倍神経質で病弱だったショパンは社交界の表裏を知り尽すにつけそれから逃れ、自分の生れ故郷、ワルシャワ近郊のジェラゾヴァ・ヴォラの風景に似たノアンが気に入ったのだろう、その郷里に遊んだのもうべなるかなと思った。

 

今回の一週間に亘るフランス中部での滞在は私にとり音楽だけでなく、美術絵画にもあらためて目を開き、ショパンとサンズの物語だけでなくローマから続くヨーロッパ歴史の一端も実感する旅となった。一口に言って今回の旅は見聞きするより感じる旅だった。

一行の中で私をフレデリック、妻をジョルジュと呼んだ人がいた。私は今日からフレデリックとなった。

おわり