2016年11月27日 (日)
楽彩~Piano Concert~Vol.2 堀内早苗&鈴木智恵

今日は3時からプロジェクト・楽彩主催の鈴木智恵(Tomoe)と堀内早苗のピアノ・コンサートがSalon Classicであった。曲はバッハの18世紀音楽から19,20世紀のクラシック、それに現代曲まで網羅していたが、現代曲は実は有史以前、2500万年ぐらい前の世界の表出であった。 今日は一つ、この人類出現以前の曲に注目してこれだけの感想を述べてみたい。これはまさに鈴木智恵の世界であった。まずは山本裕之の「Tokyo Concerto(1993)」より。乾いた無機質な音がしばらく続いたかと思うと、突然、ぎょっとするような土割れの音がした。まさにこれは先日の福岡駅前で起きた不協和音的道路陥没音だ。次は近藤浩平の「海とカルスト(2008)」、ここにも白い無機質な世界が広がっていた。これを聴いているうちに私はかつて住んだことのある三浦半島の葉山国際カントリー付近を思い出していた。ある高台に立つと、下方に樹海、遠くに油壺の海が見える。道の片側は上り斜面で白い石灰岩が顔を出し上方は緑の木々に覆われている。脆そうな白い岩石を見るにつけ、ここは太古の昔、海底だったことが分かる。風がわずかに吹いて木々を揺らす音が無意識の通底音となる中、いやがおうでも聞こえてくるのが喧しいカラスの声だ。耳を澄ましても他の鳥の声は一切聞こえてこない。こんな風景を思い浮かべていた。次に宇野文夫の「破片Ⅱ」、そして最後は鈴木英明の「心象」だ。前者は乾いた地にポソポソと湿った雨がかすかに落ちる風情。後者には心底もっともっと続けて聴いていたい想いがした。解説に「言葉を超え、言葉が行けなくなった地点から、これらの音楽は出発している。」とあった。そこで過ったのが、ル・クレジオ描くインディオの世界(ル・ケレジオ著、悪魔祓い)だ。インディオは本能的に沈黙の力を知っている。インディオが言葉や表現を警戒するのは、言葉が呪術的でその表現にともなう危険を意識しているからだ。沈黙は呪術的なものではない。それは動物的であり、植物的であり、元素的なものだ。それは大地に根差している。沈黙は、いうなれば裏返しにされた言語である。インディオの沈黙は、多くの音楽を消す。インディオたちにとって、本当の楽器は、音楽的でない楽器である。単音の竹筒、穴の二つあいている鳥笛、太鼓、撥。ほら貝、鈴。インディオたちは旋律に興味がない。旋律は彼らを退屈にさせる。旋律は罠であって、自己愛にもとづく。こんな世界が突如出現した。鈴木英明が作曲し、鈴木智恵が弾く、Ⅲ対話、Ⅳまつりにこれらが出現し、インディオの音楽を聴いた思いがした。img_06404647ad8d74122853a0b7519350adda2d1a79d2d70cb279f1e6ab329abd180669014c882691db6cae1a5ab978a2cd35a3dc1img_0303