2016年7月11日 (月)
漆原啓子&David Korevaar Duo Recital

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今日(2016.7.2)は2時から漆原啓子とDavid Korevaarのデュオ演奏会がSalon Classicであった。 もうこの二人の仲立ちをして20年以上になる。いつもながらの名コンビである。 二人を評する言葉はもはやなくなったが、今日はまた新たな感想が湧いた。それは「音は光」であるとの再認識だった。漆原啓子が弾くヴァイオリンは、数億円はするストラディバリウスだが、それが人形浄瑠璃の人形に見えてきた。物体に過ぎない人形も後で操る黒子によってあのように生き生きとした豊かな表情を見せるように、この楽器も、一つの物体に過ぎないが、黒子の漆原啓子の手に掛ると、こんなにも表情豊かな生き生きとした音を発する、その見事さに感心してしまう。物もよければ黒子もよい。あの弦を弄る左手の指の動きを見よ。ずっと振動し放っぱなしである。あの弦を上下する弓の右手を見よ。弓が左に傾き、右に傾くとき、鮎の鱗が向こうでキラキラ、こちらでキラキラする感じではないか。あの光沢あるか細い糸は黒いピアノの布地を縫う絹糸の金糸、銀糸の光のようだ。木をかんなで削りに削ったときに見せるあの艶々した赤っぽい光沢の木肌、頭を何かにぶつけた時、目から飛び出すあの光、そんなあらゆる光が音となって、いや、反対、音が光となってフェルメールの光のように私を襲ってくる。最初のモーツアルトのヴァイオリンを聴いては、どこか19世紀のサロンで二人の貴婦人が上品な会話を交わす光景に見えてきたし、二番目のドホナーニのヴァイオリンソナタを聴いては、墨絵で描かれたどこか竜虎の幽玄さが感じたし、最後のフランクのヴァイオリンソナタを聴いては大勢が群がる華やいだダンスパーティの夜を思い浮かべた。

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