2019年9月5日 (木)
第3回フランス中部ノアンへの旅、旅日記

今年で3回目となるフランス中部ノアン近郊でのピアノセミナーに出掛けた。期間は8月21日(水)から28日(水)までの一週間だった。

2019年8月22日(水)真夜中出発
8月22日、午前0時5分の真夜中、関空からド・ゴール空港に向けて離陸した。関空組は最後部座席に座ってやれやれ一息つき、これから12時間の飛行の旅だ。
機は豊岡上空ぐらいから進路を北西にとり高度をぐんぐんと上げる。10時間後、機はスカンジナビア半島上空を時速約8百キロから9百キロ、高度1万1千メートルで飛んでいる。2時間後上空から眺めた朝方5時のパリはまだ真夜中。夜景がダイヤモンドの首飾りを幾重にも巻いたようで実に美しい。碁盤の目でなくいくつものの中心から放射線状に道が広がっていることがよく分かる。
二台のバンに分乗してオステルリッジ駅に向かう。背の高い列車に乗り込む。日本の新幹線の車両の1.5倍ぐらいありそうなでっかい車両だ。ゴツゴツした列車がスマートな新幹線より旅情を誘う。アナウンスのないまま無言で静かに滑り出した。うるさい東京駅と違って心が落ち着く。長テーブルを挟んでみなが座る。皆疲れて話す元気もない。

外はいつもの田園風景が続く。駅と言われるようなものは1時間走ってもない。時々こんもりした森に抱かれたように散在する田舎の赤褐色の屋根が見える。2時間後、9時50分にシャトールー駅に着く。マイクロバスの若い運転手が駅に現れ、荷物をバスに積みこんでくれる。それから半時間、田舎の一本車道をひたすら走る。着いた。ホテル、ル・リオン・ダルジョン。また帰ってきたよ、とショパンになった気分。このホテルの佇まいがのんびりしていて好きだ、まるで旅籠の感じ。玄関にヴ・アンリ教授が笑顔で迎えてくれ、抱擁して再会を喜び合う。ホテルのオーナー夫妻や従業員も出てきてわれわれ一行を快く迎えてくれた。カウンターには日本語で「日本人のみなさん、ようこそ」と書かれていた。

午後2時からマイクロバスで7キロ先のノアンに出向いた。周りはまるで暑い氷原を行く感じ。地平線の果までベージュ色の畑と空が見えるのみ。こんなところにまたどうしてサンドの屋敷があるのかと不思議に思えてくる。この館の歴史は十三世紀に遡るらしい。ジョルジュ・サンドの祖母がフランス大革命の不安からパリを逃れこの館を買い取り移り住んだのは1793年だった。周囲を取り囲んでいた灰色の城壁を壊し、遠くの丘を見渡せるようにし、果樹園や温室を作ってその間を散歩できるようにしたものだ。

今回は運転手に無理を言ってサンドの館から1キロ離れた聖マルタン聖堂に寄ってもらった。

 

3、4年前、鳴門の大塚国際美術館を訪れた際、この聖マルタン聖堂の原寸大のレプリカを見ていたからだ。漠然としているがどうやら7、8世紀に建造された古い教会で、フレスコ画で有名。立ち寄って見るとちょうど聖堂の一部が補修工事をしていた。聖堂内に入ってみると10世紀の空気を閉じ込めたような枯淡なフレスコ空間、現代人のわれらにはかえって新鮮に映った。
二回も見たジョルジュサンドの館だ。私たち夫婦はもう館の中には入らず、私は館の外形をスケッチした。

写真で一枚パチリと撮るよりも館の外観がよく分かった。皆が館のツアーをしている間、家内と二人で外のベンチに座って晩夏の空気を思う存分満喫した。空は雲ひとつない青空、大きなブナの樹木の下は湿気がなく爽やかそのもの、目にするのは前の鄙びた聖アンヌ教会とジョルジュの田園小説に出てくるプチファデットの由緒ある建物、ショパン通りと銘打った小径で写真を一枚、19世紀中頃ショパンがパリから毎夏ノアンにやって来て感じたと思われる気分とまったく同じ気分を味わった。おそらく周囲の全てがその当時と同じだろう。今年も完全な形で命の洗濯をした。

夕方、ラ・シャトルの町を一年ぶりにひとりそぞろ歩きした。アンドル川沿いの古い家々には枯淡の風情が満ちている。川といっても川幅15メートル内外で両側の樹木が川面に影を落として風情がある。どの家もおそらく200年ぐらいは経っているだろう。黄土から ベージュの土塀は凹凸し、中から小石がはみ出している。その歳月を経た石造りの家はどれも淡くくすんで年代を感じさせる。私の実家の前を走っていた昔の西国街道のようだ。その意味でも何か自分の長年の心の中を見ているようだった。石造りの道や家はそう簡単に変えられない。道は狭く彎曲している。きっとサンドのいた頃そのままの風情だろう。昔、この辺りを馬車が通っていたかもしれない。赤茶けたり赤紫色をした屋根、黄色く変色し滲みが入った壁が緑豊かな周囲に溶け込んで懐かしさすら感じさせる。町の高台にある尖塔の高い教会とその周りの佇まいは中世の感じ。これは間違いなく典型的なヨーロッパの村風情だ。

8月23日(木)午後から果樹園行き
316号室で目覚めたのは朝七時。窓のカーテンを開けるとまだ少々暗い。身支度をして外に出るとひんやりして肌寒い。離れから本館に向かう。離れの入り口にきれいなバラが朝の挨拶をしてくれる。車道の向こう側が本館。食堂には何人かの先客の姿がある。われわれ一行10人のために設えられたテーブルで朝食を取る。ボンジュールと互いに挨拶を交わす。コーヒーにクロワサン、卵にハム、オレンジジュースを飲みプラムを齧る。
ホテルの離れの先端からアンドル川を入れたスケッチをする。橋が架かり、その向こう左手に古い赤茶けた屋根の家が二軒見える。屋根にはチムニー。橋下をアンドル川が静かに淀んでいる。

3、40畳ほどある四角い部屋にベヒシュタインの黒い艶消しのグランドピアノが置かれレッスンが始まった。このピアノはホテルの備え付けではない。イヴ・アンリ教授の自宅からわざわざわれわれ一行のために運び込まれ、にわか仕立ての教室にしたものだ。受講生は泊まっている離れに居座りどこにも行かず、そのままレッスンを受けられるのだら有り難いことだ。
イヴ・アンリ教授がピアノに向かい模範を示す。受講生が横に立ちじっくり聴きながら楽譜に何事か一生懸命書き込んでいる。役者が変わって今度は生徒が弾く。ヨコの椅子に軽装で座り、手で拍子を取り口元を少し開けて、「ちょっと待った、そこで止まって! もう一度」と、手がまた動き出す。手を伸ばす。また先生がピアノに向かった。生徒に再度代わる。少し上向き加減になり目を瞑って聴く。手の指が五本とも動く。慌ててストップを命じる。先生にはすべての曲が頭に手指にあるのだろう。

昼二時、今日はアンリ先生推薦の庭園行き。ラ・シャトルから東北(?)に約20キロ、オルサンに行く。両側2車線の田舎道を突っ走る。道に沿って灌木が立ち並び、起伏のある原野のあちこちに灌木の林や森が散在している。耕地に時々白い牛の放牧は見えるが、人の姿はない。ときどき茶褐色の農家がポツリポツリ。どうして屋根の勾配が急斜面なのだろうか。やはり冬場は雪が深いのだろう。道路標識以外に立て看板が皆無なのが嬉しい。商魂逞しい広告をあっちにこっちに見慣れている身には清々しい。
庭園に着いた。この庭園は中世12世紀に造られた代物という。中世の修道院では身も心も浄めるために庭園を作ったらしい。広い敷地を15区画に分けていろんな果樹や花が植えられていた。例えば、ローズガーデンやハープ園、オークツリーの並木、リンゴや梨園、その他色々だが、ちょっと季節外れで向日葵以外はかすんでいた。ちょっと残念。
帰り、また単調な内陸部の車道を走っていると、きれいな花の咲く小綺麗な村があった。典型的な田舎の村だ。村の真ん中に背の高い教会の建物、その裏側に村役場がある。こんな小さい村にも音楽会の催し物案内が出ていた。明日はこの村で結婚式があるとベンチに座って一人佇んでいた老婆がいった。平和な、平和な村の表情を見る思いがした。このような場面に立ち会うと、ジョルジュ・サンドの気持ちになってくる。 天と地しかない自然豊かな鄙びの中、歳を忘れ文明を忘れ、人を忘れ湿潤から解放され、フランスの田舎のおおらかさを味わうのみだった.

8月24日(土)アンリ教授邸でコンサート

もう夏というより秋の気配だ。下方にあるアンドル川沿いのホテルから教会のある高台にくねくねした狭い道を登っていくと両側に店屋が立ち並んでいる。京都の清水坂を登っている感じ。教会広場よりさらに上に登っていくと広場があり、そこに青空市が開かれていた。ところ狭しとあちこちに張られたテントの下にはあらゆる種類の商品が売られ、魚屋、八百屋、小間物屋はもちろんのこと秋祭りの風情だ。


赤く日焼けした軽装の老若男女で一杯。その傍にあるカフェも大入り満員、繁盛していそうだ。やはりこの町というか村はジョルジュ・サンドで聞えているらしく、彼女の写真や絵があちこちに飾られ、その名前を冠した店屋も多い。歴史の中に無意識に浸かっているここの人たちが羨ましくなった。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返す日本は歴史を消している。

夕方5時、マイクロバスに乗り込み、イヴ・アンリ教授の自宅へ。ホテルから5分のところだ。大きな封建領主を思わすような、田舎の中の一軒家。それは家というより古城だ。その大農地の一角に納屋を改造したコンサートホールがある。斜めになった一番奥まったところの高さは10メートルぐらいはあるだろうか。きっとその昔、大型の農機具が一杯詰め込まれていたに違いない。大きな納屋には時代もののプレイエルやベーゼンドルファー、ベヒシュタインなどのグランドピアノがおかれている。藁跡が残った黄土色の壁には、ショパンやリストの大写真、タグ夫人、ジョルジュの大写真がはられている。サンドの息子、モーリスや娘、ソランジュの大写真も貼られている。コンサートが始まった。レッスン受験生が順に15分程度の演奏。続いてアンリ教授の演奏。曲によってピアノを使い分けながら素晴らしい演奏に心の中で万歳。アンリ教授の弾くプレイエルのショパン曲にメランコリックに沈み、カコー、カコッという響きに深みへ深みへと導かれ静けさという名の布に私なりの刺繍を刻んでいく。演奏が終わると、ミジョ夫人も現れてスパーリングワインを注ぎ回ってくれる。和やかなひとときが過ぎる。

8月25日(日)ラ・シャトルを出発、パリへ

今朝も秋のような爽やかさだ。いよいよラ・シャトルにお別れ。10時過ぎ、イヴ・アンリ教授がホテルの玄関に現れ、みなで記念写真を撮ってバスに乗り込む。一路、シャトールーへ向かう。11時18分、予定通り列車が来てベリー地方に別れを告げ、パリに向かう。

13時15分、パリに着く。暑い。ベリー地方より北にあるから秋の涼しさかと思いきや、なんのなんの真夏の気候だ。人里離れたラ・シャトルと打って変って喧騒の巷にまた舞戻ってきた。セーヌ川を渡ればすぐのホテル・パリ・バスチーユにチェックインした。午後2時だ。今日はみなしてクロード・ドビュッシーの生家を訪れることにした。

昨日までの鄙びに対して今日からは都会の雅だ。パリをどのように表現すれば文学的に響くだろうか。なかなか形容の難しい都会だが、やはり「花の都」というあたりが至当かも知れない。東京でもなければ、ニューヨークでもない。これらの都会はどうしてもビジネスの臭いがする。それに対してパリは文化の臭いだ。観光というのではない。人を威圧するような背の高い摩天楼はなく、時代を経た石造りの白黄土色の壁に青灰色の屋根の建物は貫禄があり品がある。路上の一角から見る縦縞のような建物群。フレンチレースと言われる窓から突き出たテラス、これらを見ているといつも縞馬の縞を思い出す。街には街路樹が多く、緑が目にしみる。道幅は広く放射線状に並んだ石畳が美観を添える。
何と言っても古い都だ。西暦前55年にローマ人が住み着き、四世紀頃にゲルマンの大移動でフランク族が東から来てパリと命名して以来の都会だから街の含蓄は大きい。往き交う人たちがまた多彩だ。アフリカ系の人種も結構多い。イスラム系の衣服を着た者もかなり見受ける。

今日訪れたドビュッシーの家はパリ郊外のサン=ジェルマン・アレに位置していて、ホテルから北東に40分ほどの距離にある。ホテル最寄りのバスチーユ駅のプラットフォームの壁にはいやがおうでもフランス革命を思い出すバスチーユ要塞陥落の図が広告としてはめ込まれていた。地下鉄はやがて郊外電車となり蛇行したセーヌ川を渡るとサン=ジェルマンアレ駅に着いた。駅を降りるなり目に飛び込んできたのは白亜の大きな古城。駅前広場の一角はカフェのテラスになっていて多くの人たちが夏のひと時を戸外で楽しんでいた。瀟洒な通りをしばらくいくと生家があった。
昔、ドビュッシーの親が陶磁器を扱っていた商店街の一軒。玄関ファサードにフランスの三色旗がはためく5階建ての建物だ。中に入ると、ドビュッシーの生涯を示す一連の展示、二階にその持ち物の展示、三階に50人ほどが座れる小ぶりのホールがあった。ドビュッシーには日本も関係深く、展示品の中にも着物や陶器、浮世絵が並んでいた。私自身、昨年ドビュッシーの曲を30号の油絵にしたので身近に感じる作曲家だ。ノートに今日訪れたことを日本語で書き込んだ。


駅前のカフェに戻って喉を潤した。私がいつも感心するのはこのようなカフェの佇まいに文化を感じること、内装の広さと美観だ。このような喫茶店が至るところにある。日本にも半世紀前まではこれに近い喫茶店があった。しかし今やちゃちなドトールコーヒーやスターバックスがあるのみ、これでは情緒ある人間は育たない。日々に劣化していく歴史無し、文化無しの日本人の増産に心が痛む。とにかく最近の日本人は美意識に乏しい。これはうわべの化粧ではない。

帰りはその足で凱旋門辺りやピガールの丘からエッフェル塔を眺めたりした。凱旋門を間近に見るのは初めてだが、なるほど言葉通り勝利を記念した威風堂々の構築物だ。ここでも三色旗の存在感が大きかった。「ここにフランスあり」と無言の宣誓をしている趣きがあった。この周辺でも夏の終わりを楽しむ観光客や土地の人で賑わっていた。高い空を突き刺すような優雅なエッフェル塔が独り高く聳えている。夜8時半にムーランルージュ傍にあるイタリアンレストランを伊藤君が予約してくれていた。昨年も来たレストランだが、この周辺に住んだことのある伊藤君馴染みの店だ。バスストップでバスを待っている間に、道路の向こう側に高級車が並んで止まった。2千万円はするベントレーその他の高級車だ。それを見ようと集まってくる人もいる。その車の前にはちょっとやそっとでは入れない高級レストランが立ち並んでいた。8時が回ってもまだ明るい。
ムーランルージュの赤い風車が赤々と薄暗闇の空に回っていた。緩い坂道にあるイタリアンレストランの外テラスにわれわれ一行のためにテーブルが設えられていた。この坂道がまたいい。シックな風情を醸し出していた。狭い道の向かい側にムーランルージュの小間物の陳列窓があった。みなさんの多くが注文したのはボンゴレだったが、私はパスタの3種盛り合わせにした。味はもう一つだった。

8月26日(月)、フォンテーヌブローの森へ

午前9時50分にホテルを出てバスでリオン駅に向かう。壮大なクラシック調の駅公舎。オスタルリッジ駅とは貫禄において大違いだ。ミラノ、トリノ、リオンと国際色豊かでもある。人物のレリーフを施した駅建物には歴史が滲んでいる。周辺を屈強な男たちが橙色の制服を着、銃を持って見張っていた。10時17分、静かに列車が動き出した。車内は寒色、暖色取り混ぜた椅子が日本の新幹線の座席とはちょっと違い通路を挟んで3人掛けと2人掛けで並んでいる。パリから南西の方向に走っている。ベルサイユは南東、反対側だ。日本の新快速電車に乗っている感じ。パリの郊外らしく緑豊かな樹木の中にいつもの暗紫色の屋根が覗いている。
豪華絢爛、これでもか、これでもかと贅を尽くしたフォンテーヌブローの森、権勢を誇った歴代の王や女王が住み、ナポレオンも住んだという宮殿を二時間近く掛けて見て回った。中世1137年の建てられたと見られる初期の城から、17、18、19世紀に建増しされた建物の総絵巻。

フランス革命の難を逃れてノアンに来たジョルジュ・サンドの祖母、今回パリで二泊したホテル名のバスチーユ、このフォンテーヌブローの森と今回の旅ではフランス革命を思い出さずにはおれなかった。

僧侶、それも一握りの司教などの高僧と王侯貴族だけが権力を握り、その他の人間はゴミ屑同然、何の権利もないのにそれら権力者のために税金だけはしっかり支払わされる、そんな理不尽なことがあってたまるかと、自由、平等、友愛を叫んで人民が立ち上がった。ナポレオンが名演説をぶったのはこの階段からだったのか。

それを象徴する三色旗。この革命ニューズが鎖国日本に伝わったのはバスチーユ攻略後5年目の1794年、オランダ船の船長が徳川幕府に差し出した『風説書』によってだそうだ。こんなことを考えながら、城を見て回った。

それにしても何と贅沢な調度品の数々、広い絢爛豪華な部屋の数々、われわれの想像を絶する。しかし、電化の兆しすらなかった当時、部屋の灯りはロウソクの火だけ。何と室内の鬱陶しいことよ。暗いことよ。暗さにおいては同じでも質素にして威厳に満ちた京都二条城の佇まいとは大違い。日本人の私にはやはり後者の方にわびさびの世界を感じる。

外に出て眺める庭園の広さ、一部の者は馬車に乗って園内を一回りしていた。われら夫婦は木陰の下のベンチに寝転がって涼を取った。気持ちよくベンチに寝そべって考えた。民衆の怒りをかい、ギロチンの露と消えたルイ十六世の姿、マリー・アンソワネットの姿、後、島流しにあったナポレオンの姿。しかし、そのお蔭で今の世界があり、日本があるのだと。

ホテルに帰ったのが4時半ごろ。一部はホテルに帰らずその足で買い物やショパンの眠るお墓を見学行ったようだ。3時間近く休んで再び晩餐会へ繰り出す。昨晩のイタリアンレストランに比較的近いピガールの丘のフレンチレストラン。8時はまだ明るい。予約席に座り各々好きなものを選び注文する。私は前菜にオニオンスープ、メインはミーディアムのステーキ、デザートはプリン、白ワインを注文した。ちょうどそこへ阪大で音楽学を専門にしておられた某先生が参加された。音楽の話に花が咲いた。先生方と文化人類学の話にまで発展し、面白い旅締めくくりの晩餐会と相成った。

8月27日(火)、帰国の途へ

ホテルをチェックアウトし、バンに分乗してド・ゴール空港に向かう。朝10時ちょうど。空港に着くなり搭乗手続き。航空会社の地上スタッフがいるカウンターではない。ロボットが並んだような風景。それに向かい日本語を指定すると、全てが日本語で説明される。すでに搭乗者名など関連事項は入力済。パスポートを所定場所に置き確認されると一切は自動処理され、荷物の荷札タグまでもその場で印刷されて出てくる。それを荷物に貼る。機内の座席も選ぶことができる。荷物を持って所定の場所に移動、ハンドルを回し、 荷台に荷物を置くとコンベアーが動き出し全てが終わる。毎年、進化して行く搭乗手続き、国際的な航空機利用の大衆化を物語るものだろう。

空港のキオスクで一冊の本を見付けて買った。本旅行で買った唯一のみやげだ。ベストセラーナンバーワンYuval Noah Harari著『21 lessons for the 21st Century』

はじめの方をペラペラとめくると、「これからのbiotechとinfotechの同時進行で世界の潮流は確実に変る。備えはいかにあるべきか」を問うものだった。興味津々。機内で少し読んでみよう。

また来年もよろしく。

そう伝えて旅日記を終わるとしよう。

 

The Music Center Japan 専務 中西隆夫