2021年1月6日 (水)
クラシック音楽って

クラシック音楽って

 

先日、かつてベストセラーになった「絶対音感」(最相葉月著)を読み直していて、あの世界的に有名な作曲家にして指揮者、L.バーンスタイン(ミュージカル“ウエストサイド物語”の指揮など)の「音楽って何?」と題する言葉に出会った。孫引きの上、我田引水めくので恐縮だが、ちょっと引用してみたい。「…大切なのはこのリズムが僕たちを興奮させ、ワクワクさせてくれること。…ワクワクするのは、ワクワクさせるように音楽が書かれているから。…みんなだって何かが自分に起こったとき、踊ったり歌ったりして、自分の気持ちを表現してみたくなることってあるでしょう?絶対あるよね。作曲家にもあるんです。…音楽の意味っていうのは、これなんです。シャープとかフラットとか和音とか、むずかしいことをたくさんわかる必要はないんです。もし、音楽が何かを私たちにいおうとしているなら、その何かというのは物語でも絵でもなく、心なんです。もし音楽を聴いて、私たちの心の中に変化が起こるなら、音楽が私たちにもたらすいろいろな豊かな感情を感じることができるなら、みんなは音楽がわかったことになるのです。音楽とはそれなんです。物語や題名はそれに付随したもの。そして、音楽が素晴らしい点はみんなにいろいろな違った感情をもたらすことができること。それには限界なんてないんです。…音楽は音符の動きです。忘れてならないのは、音楽は動いているということ。たえずどこかへ動き続けます。音符から音符へ飛んで、変化して流れていきます。そしてそれが、何百万という言葉でもいい尽くせない心を伝える方法なんですね」

(p240~242)

私自身、音楽はそのようなものとずっと考え、その考えに基づき自分のホームページを作ってきた。が、内心いつもどこかで忸怩たるものがあった。今月、これを読んで心底救われた。今までの姿勢を貫いてよろしいとこの天下の指揮者にお墨付きを貰った気分になった。もう一度要約すれば、①専門知識より心、②いろいろな感じ方があっていい、③音楽は動いているもの、④言葉では言い尽くせない心、この四要件になる。

相当以前の話だが、うちでクラシックファンが集まってクラシック音楽について語り合ったことがある。この機会にそのことについても少し触れておきたい。

まずこんな質問が出た。クラシックはどこで聴くものか。A君「ロックなどはからだ全体で聞く。演歌などは胸で聴く。クラシックは頭で聴くものと考えられがち」B君「クラシック愛好者も最初は胸で感動していたが、知識が増えるにつれ頭で聴く傾向が出てきた。クラシックには教養主義的、形而上学的色彩が濃く、俗化させたくない意識がある」B君「よって<超技巧…>などと一般受けしない表現が多い。「英雄」などの副題があると大分違う」中西「マニアックな人たちの話題にはついていけない」

次の質問。本当にクラシックファンは少ないのか。C君「隠れたファンはいるにはいるが自らファンと名乗ることは少ない。何かのキッカケでそれが判明する。次。クラシックはどうして近づきにくいのか。B,Dの両君「今は視覚偏重の時代。視覚に訴えられないものは受けない。聴覚だけでは物足りない」E、B君「今はインスタントな時代。ちょいちょいといいところだけをつまみ食いする時代。長々と半時間、一時間と聴く辛抱がない」中西「今はラフな時代。姿勢を崩さず、咳一つせず、静かに居座る苦痛に耐えられない」次。クラシックの質は。D君「クラシックは20世紀前半までに作曲されたもので作曲者の顔が見えない。親近性がない。舞台の演奏家と聴衆の間に一体感がない。舞台と客席の間の物理的、心理的距離が問題」B君「楽譜に忠実に演奏することが求められるものゆえ、創造性に乏しい」など。

前号でも書いたが、人それぞれに好きな音楽を聴けばよい。それが心を打つものであればジャンルを問うことはない。しかし今あらためて思うに、他のジャンルの音楽を聴いて、今のようなコメントが書けるだろうかと。むしろクラシックだからこそ書けているような気もする。それほど強くクラシックは私の心を打っているのかも知れない。

ホームページ

www.diana.dti.ne.jp/~tmcjapan

 

(2004.2)

 

 

 

はじめに 今夏もノアンに3回目のピアノセミナーで行くことになりました。ピアニストの皆さんは今回もピアノの勉強に余念がないことと思います。一方、音楽家でない私は、この三回目の旅を今まで以上にショパンとサンドの間柄を知る探検の旅にしようと思っています。2年前の夏にも旅に先がけて、二人のことを「旅のしおり」でまとめましたが、あれはあくまで表面的でした。今回はもっと突っ込んでみたいと思います。

主に参考にしたのは「世界大音楽全集9(河出書房1968年版)ショパン(フランツ・リスト著:亀山健吉/浜名政晃訳)」及び「ジョルジュ・サンドの世界 生誕二百年記念出版 日本ジョルジュ・サンド研究会(第三書房2003年6月)」です。リストはショパンの死後一か月にして彼の伝記を書こうとし現に書きました。それは実に生々しく今回の大きな参考になりました。

二人のケミストリー ショパンとサンドが磁石のように互いに引き合ったり、撥ね合ったりした力は何か、これが今回の私の大きなテーマです。人には相性があります。相性を英語でケミストリー(化学)といいますが、分子同士がうまく化合する関係もあれば一向に馴染まない関係もあります。ショパンとサンドの化合状態はどうだったのでしょうか。似た者同士の面もあれば全く似ていない面もあったと思われます。

18世紀前半のヨーロッパ ご存知の通り、ジョルジュ・サンドは1804年フランス生まれ、フレデリック・ショパンはポーランド1810年生まれで、サンドの方が6歳年上です。フランスとポーランドは国は違いますが当時の社会情勢としてはヨーロッパとして共通していました。1830年7月、パリで「七月革命」が起きました。1789年のフランス革命で王侯貴族が打倒されましたが、その反動で王政が復活してきました。これを民衆が自由を叫んで再び倒そうとしたのです。ドラクロワ描く「民衆を導く自由の女神」はその時の情景です。この時、サンドは26歳、故郷のノアンにいました。そこに近いラ・シャートルの町は自由の報に熱狂と興奮に包まれました。しかし、その革命は失敗に終わりました。落胆したサンドが社会問題に深く関心を示したのはこのときです。一方、ショパンはこの時、20歳、祖国ポーランドが独立運動を起こしましたが、ロシアに鎮圧されて深い悲しみに打ちしおれ、強い怒りをおぼえてエチュード「革命」を作曲しました。旅先のことでした。このようにある意味で境遇をともにしたショパンとサンドですが、彼らの生立ちと幼少のころはどうだったのでしょうか。その違いはどこにあったのでしょうか。

二人の誕生 先に生まれたサンドからみていきましょう。

サンドの幼時 ジョルジュ・サンドは幼少の頃名前をオーロール・デュパンといいました。オーロールは1804年7月1日、パリで生まれました。父は名門貴族の血を引く士官、母はその上官の情婦で小鳥商人の娘でした。生まれた数か月後から一家はフランス中部ベリー地方にあるノアンの父方の祖母の館に住むことになりました。この祖母はポーランド王家の血を引く誉れ高い貴族とはいうものの、フランス陸軍元帥ドゥ・サックス伯爵と清涼飲料水商人の娘との間に生まれた私生児でした。オーロールが4歳の時、不幸なことに父が落馬事故で亡くなりますと祖母は母との間でオーロールの教育をめぐって葛藤を表面化します。そこで母はパリに去り、祖母は幼い孫娘に貴族教育を受けさせました。祖母自ら音楽を教え、文学の手ほどきもしました。丈夫に育ったオーロールではありましたが、父母のいないさびしさから村の農民の子供たちといっしょになって野原を駆け巡ってさびしさをまぎらわしました。この時の幼児体験が後のサンドの糧になりました。サンドは物心がつくにしたがい母を慕って反抗的になり、手を焼いた祖母はついに13歳になった孫娘をパリの寄宿学校に入れました。

ショパンの幼時 次にフレデリック・ショパンの方を見てみましょう。ショパンは1810年3月1日、(2月22日説もある)ポーランドのワルシャワから西へ54キロにあるゼラゾヴァ・ヴォラという小さな村で生まれました。写真で見る限りこの地はノアンやラ・シャートル近辺とよく似ています。ショパンは生後8か月で一家とともに首都ワルシャワに移りワルシャワで育ちました。ショパンの父、ニコラはフランス、ロレーヌ地方生れのフランス人で、その父、つまりフレデリックの祖父は車大工だったといいます。そのような庶民出のニコラが16歳の時、ポーランドに渡り、はじめタバコ会社で働きますが、工場が封鎖されたため辞め、ポーランドに帰化して、ワルシャワ辺り一帯の領主だったスカルベック伯爵の宮殿内に住み、ポーランド貴族や上流階級の人々に公用語のフランス語を教えていました。この宮殿でニコラと知りあって結婚したのがショパンの母、ユスティナ・クシジャノフスカでした。彼女はスカルペック伯爵の遠縁に当たる高貴な女性で伯爵家の侍女をしていました。

この二人の間に生まれたのがフレデリック・ショパンです。彼には三人の姉妹がいて、彼は四子のうちの第二子に生まれたただ一人の男です。フレデリックという名はスカルベック伯爵の名前にあやかってつけたもののようです。信仰心の篤い敬虔な一家で母も姉もピアノをよくし、フレデリックは母の演奏するポーランド民謡を聞いて幼時を過ごしたようです。このポーランド民謡の響きがいつまでもフレデリックの心に残りました。問題はフレデリックが病弱だったことで、これが一家の一番大きな心配事でした。

幼時における二人の共通性と対照性   二人の幼時を見ただけでも二人の共通性と対照性がみてとれておもしろいですね。

親のどちらかが貴族の血を引き、他方は庶民である、この点が共通しています。どうもこの時代は私生児が多い。妾を持つのは男の甲斐性というものだったのでしょうか。サンドは幼時をノアンの田舎で育ち、ショパンはワルシャワの都会で過ごした。この点では対照的です。サンドの育った館もショパンが育った宮殿も立派で環境的には共通性があった。サンドが両親のいない寂しさ悲しみの中で育ったのに対し、ショパンは一家の愛情を受け、貴公子のように育った。これは対照的です。サンドが逞しく元気に育ったのに対し、ショパンは虚弱で病弱、いつも身に不安がつきまとった。これも対照的です。

人生のスタートからして違いますね。サンドが男性的であるのに対しショパンは女性的ですね。

二人の少年少女期はどうだったのでしょうか。

サンドの少女期  祖母にパリに送られ入った寄宿学校はイギリス系の修道院付属寄宿学校でした。二年間ここでみっちり礼儀作法や英語を仕込まれました。新興国イギリスは早くも産業革命を成し遂げた経済先進国で、古く封建的なフランスとは違いました。イギリスにはまた自然に包まれた原始的な面が残っていて、人為的で技巧を凝らしたところが多いフランスとは違いました。イギリスは衣食住も簡素なら、生活態度も都会の社交生活よりも狩猟を好む野性的な面が濃厚でした。多感で不安定な少女時代をイギリス人の尼僧や友人と穏やかに暮らしたサンドはイギリスのこんな面に魅力を感じたようです。パリの都会よりもベリー地方の田舎を愛したサンドらしいところです。寄宿学校ではシェークスピアの“ハムレット”や“ロミオとジュリエット”などを原文で未読し、将来、物書きになろうと夢みたようです。

ショパンの少年期 一方、ショパンはどうだったでしょうか。

無性の音楽好き 虚弱で病弱、華奢に育ったショパンはいつも身の不安にかられていました。しかし物心がついた頃からポーランド民謡が身体に沁み込み、無性に音楽にとりつかれた子どもになりました。普通の子どもなら文字で綴るようなことを音で表現しようとする一風変わった子どもでした。人の声も犬猫の声も全部音楽に聞こえたようです。彼の家は宮殿の一角にあり父親がフランス語を教えていた関係で家の中にはフランス的雰囲気が漂い、有名な芸術家や学者が毎夜のように客間にたむろしていました。これが子どものショパンに目に見えない影響を与えたはずです。

ピアノの勉強 ショパンがピアノの勉強をし出したのは幼時からで母や姉について習い始めました。現存する最初の作品『ポロネーズ』は7歳の時の作品です。また8歳の時に初めてピアノの公開演奏を行いました。9歳の時にはバッハに私淑したジブニーについて古典音楽の様式をしっかりと勉強しました。彼はワルシャワの公立中学に入学しました。しかしショパンの家計は貧しく苦しい状態でした。そこで彼の才能を見抜き、経済的援助を与えたのがアントワーヌ・ラジヴィーウ公爵でした。公爵はショパンに完全な音楽教育を受けさせました。この旧ラジヴィーウ公爵の宮殿は現在、大統領官邸として使われているそうです。

在学中、知り合った伯爵家の友人の母、ルイズ・チェトヴェルティンスキー公爵公妃がショパンの中に詩人を発見しました。お褒めに預かってショパンは大喜びでした。
その後、ワルシャワ音楽院作曲科に入りますが、この音楽学校時代のショパンは模範的な学生であるどころか、逆に担任なかせでした。「いつも勝手にする」と苦情が洩らされました。しかしそんな時、作曲を指導していたエルスナーは、「彼には好きなようにやらせなさい。彼には並々ならぬ才能があるのだから」と言って取り合いませんでした。このような良い師に恵まれたショパンは教科書の枠を超えた新しい響きの世界を開くことができました。しかし彼は天才ほどではなかったし、家族も彼にそれほど大きな期待をかけていたわけではありません。彼自身も大音楽家になろうなどとのおうそれた野望は持っていませんでした。が、熟練した有能な音楽教師にはなりたかったようです。

少年期の二人の展開もかなり対照的ですね。サンドは社会や政治に関心を示し同時に文学にも傾倒し、将来は物書きになろうと決意します。イギリスの小説が大きな刺激になったようです。一方、ショパンは社会や政治には一切関心を示さずポーランド民謡に魅せられ音楽一筋に進んでいきます。ショパンはもうこの頃から詩人と呼ばれていたのですね。

二人の青年期 では次に二人の青年期を見ましょう。

サンドの青年期 サンドのパリの寄宿学校生活は14歳から16歳までで、その後ノアンに帰りしばし祖母と暮らしましたが、祖母が亡くなったためノアンの館の跡取りとなりました。

結婚 それから一年して18歳の時にサンドは田舎貴族の私生児で後に男爵となる、9歳上のカジミール・デュドゥヴァンと深い愛情もないまま結婚しました。彼は陸軍士官学校出身の少尉でしたが、サンドと知り合った頃は軍務を棄てて法律を学んでいました。翌年には息子モーリス、数年後には娘ソランジュが生まれますが、サンドのような知的で博学な妻が、狩りだけが趣味の凡庸な夫とうまくいくはずがありません。

作家デビュー 激しい夫婦喧嘩の末、サンドは夫に扶助料を払わせ、サンドが一年の半ばをパリで過ごすことを認めさせました。そこで自由を求めパリに出て文筆生活を始めました。サンドの26歳の時です。この時、サンドの生涯を決定的に転換させたのがベリー地方出身の文学青年、7歳年下のジュール・サンドーでした。この青年と恋仲になり、夫と大喧嘩したサンドは夫と子供たちをノアンに残してパリに出て彼と同棲しながら、サンドーと合作で小説を書き始めました。この時、用いたペンネームがジュール・サンドーをもじったジュール・サンドでした。翌年1832年、ノアンに帰ったサンドは、小説『アンディアナ』を書き上げ、ジョルジュ・サンドの名前で出版しました。サンドという姓は変えず名だけをジョルジュとしました。ジョルジュにはベリー地方の人という意味があるそうで、最初はフランス語でGeorgesと綴っていましたが、まもなく英語風にsを落としてGeorgeとしました。
いよいよサンドは作家として成熟していきました。そのためには人間として成熟しなければなりません。大勢の有名人との付き合いが始まりました。作家のバルザック、音楽家のリストやショパン、画家のドラクロワらの芸術家、ほかに宗教家、思想家、政治家、学者などさまざまな人々と付き合いました。

社会的正義の芽生え そのうちに彼女の目は労働者、農民そして多くの女性たちの、恵まれない生活に向けられるようになりました。貧富の差や社会的不平等を批判し始めました。改革への熱意を盛り込んだ作品、後に社会主義的小説と呼ばれるものを多く発表しました。

ショパンの青年期 ショパンの中に詩人を発見したルイズ・チェトヴェルティンスキー公妃のサロンはワルシャワの中で最も溌剌とした、洗練されたサロンの一つでした。ショパンはここで名流貴婦人や妖艶な美人たちの踊る姿に出会いました。当時、ワルシャワは北のパリと称され、社交界は華麗と洗練と雅致で鳴り響いていました。ここにヨーロッパ中の名士が集まってきたのは当然でした。ショパンはここで貴婦人方のステップをよく観察しそれを演奏で表現しました。彼女らは踊りが高潮してくると熱情的になり、その中に秘密の優しさをのぞかせました。ショパンはこうしてポーランドの詩的理想を把握したのです。
この詩的理想とはどういうものだったのでしょうか。知りたいところです。

ポーランド時代のショパン 冒頭で述べたようにショパンは 20歳の時に祖国ポーランドを離れウィーンに向かいましたが、それまでの20年間こそショパンにとってもっとも貴重な歳月でした。ピアノを勉強し習作的な作品を多く作曲し、自分の才能をあらゆる角度から検討しました。新しい時代に生きる芸術家としての自分を見つめ考えました、子ども時代から子ども心をとらえて離さなかった民族音楽の美しい旋律は、クラシック音楽に見られない風変わりなリズムで、不思議な音の響きでした。そして何よりも即興の楽しさがありました。

ポーランド民謡 この魅力溢れた民族音楽が、幼年時代からショパンの周りには満ちていました。民謡の宝庫と言われる東欧、その中でも美しい旋律で有名なポーランドの民謡が彼の心をとらえて離さない最初のものだったようです。非常にはっきりしたリズムをもつポロネーズも、悲しげな旋律をうたいあげるクーヤヴィアックも、陽気なオペレッタも、彼の心に直接響く楽しい音楽でした。ショパンがこうした民謡の形を借りて作曲する時、本当に自由に、気の向くままに作曲できました。少年時代から15、6歳までの間に書いたマズルカやポロネーズは、それを如実に示しています。

創作の自由 この前半20年の生涯に、ショパンが学んだ最大のことは、創作の自由だったと考えられます。ポロネーズやマズルカのように、本来民謡から出たものは非常に感覚的で、作曲上の形式的約束はなく、一番とりあげやすかったようです。彼の心には次々と美しい旋律が浮かび、彼の創作欲をいやが上にも高めました。その美しい音の流れに生命を与えるのに形式的約束ほど不自由なものはありません。そのために、彼は自分のひかれる民謡の形式や小品の中に、知らず知らずの間に彼の道を開いていったと考えられます。彼にとっては、在来の形式上の規則を踏む重要さよりも、彼の精神の要求に従うことの方が創作に通じていました。ロマン派のピアノ音楽の特色は、大作ではなく小品であるともいわれていますが、ショパンは無意識に、創作欲のままにその方向に進んでいったのだと考えられます。

民族音楽の美しさ ショパンは全く多くのことを民族音楽から学びました。南部のカルパチア山麓から北のバルト海に広がる肥沃な土地に恵まれたポーランドは農業国としてその歴史を築いてきました。ポロネーズ、マズレック、クーヤヴィアック、クラコヴィアックなどは、そのポーランドの農民たちの間で、長い時間をかけて作り上げられた代表的な民族音楽です。それらは美しい髪飾りや、きらびやかな胸の装飾など地方独特の民族衣装のように各地方の特色をよく表わしたものでした。

ワルシャワの音楽 ワルシャワの町には、各地から集まった人たちが住んでおり、ショパンも、幼い時からこれらの音楽に触れて育ってきました。

農民の音楽 しかし、ショパンが旅先でふと耳にした農民の音楽は、ワルシャワのそれとは違った味わいを持っていて、かれの興味をひきました。作曲のテキストにもなく、洗練されたワルシャワの人間にはついぞ聞くことができない、農民たちが耳から耳に伝えてきた原始的とも思える伝統の生の姿がありました。粗雑で、野生的で、なんとなく積み重なった音の集合、いきあたりばったりの音の重なりが和声であり、そのくせ不思議な音効果として彼の心に語りかけました。こうした民族音楽の中から、即興性、テンポの変化、リズムの変化のおもしろさ、旋律的特徴、ルパートのあやしい魔力を引き出し、それを自分の音楽形式にまとめあげたのです。ショパンの音楽の生命とされている自然なメロディーの流れは民謡の「うたい」に極めて強く影響されたといえます。その上民謡は、即興的性格をそなえていますから、演奏者のその時の気分や、その場の雰囲気のままに自由にテンポを早めたり、遅くしたりするばかりか、アクセントの位置も変えてしまいました。このおもしろさがショパンを傾倒させるに十分な要素を持っていたのです。

ショパンの芸術音楽 彼は、それぞれの民謡のもつ特徴的なおもしろさを抽出して、芸術的に高め、在来の音楽にはなかった分野を切り開きました。それは民族音楽の香りこそ高いが、もはや民族音楽ではなく、彼の才能が自由に花開いてピアノによって生命が与えられたショパンの音楽となりました。彼が民族音楽の形式を借りて築いたショパン独自の音楽の世界です。幻想的な、あるいはロマン的な情緒に溢れた彼の詩の世界へと誘う音楽です。ショパンは、まったく多くのものを民族音楽から受け取りました。それから受けた影響は、ポロネーズやマズルカにとどまらず、彼の創造力の血や肉となって、ソナタや幻想曲を含めた彼の全作品に及んでいます。

ショパンとサンドの運命の出合い 1835年ごろになると、サンドはノアンに暮らす夫とますます険悪な関係になってきます。当時のフランス民法では離婚は不可能でしたが、サンドは夫との正式な別居を求めて訴訟を起こします。サンドが音楽家ショパンと知り合ったのはこの頃です。二人が急速に親しくなるのは1838年からですが、そのことはまた後述するとして、ここからサンドとショパンが引かれ合った状況をみてみたいと思います。短編、長編と次々に作品を発表していく作家ジョルジュ・サンドは、時々男装をしてパリの街を闊歩し葉巻を燻らしていました。するとあれはデュドゥヴァン男爵夫人だよと知られるようになり否応なしに有名人になってしまいました。

サンドが見たショパン その頃のサンドはショパンの友人、リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人から、ショパンという風変わりな芸術家のことを度々聞いていました。サンドはショパンの技能よりも、詩人的天才としての噂を多く聞いていました。実際にショパンの作品に接するに及んで、その作品の夢のような甘さ、隅々まで充ち満ちている素晴らしい高貴な心情、豊富な感情などにすっかり驚いてしまいました。ショパンは自分の詩情を岩や大理石に刻んだような、どっしりとした表現はしません。その代わりに、作品からあらゆる重さを取り去り、輪郭を拭い、蜃気楼に映る空中楼閣のように大地から切り離して、雲霞のように浮遊させました。この事を知ったサンドはショパンの作品の捉えがたい軽快性にますます惹かれました。そしてショパンの中に見る理想の姿にサンドは心を捉えられました。さらにサンドは、ポーランド婦人が先頃の戦争で示した犠牲的精神について彼らの同国人が熱狂的に語るのを度々耳にし、それと芸術家ショパンから受けた霊感から、女性は男性への依存と劣等感を棄てて、男性の友として高い知性を持たなくてはならないと思うようになりました。

 ショパンの感受性 ショパンの音楽がこのように霊妙な作用を及ぼすのは、彼の調べの中に、乙女らのはじらいと情熱のひそやかな囁きが感じられるからです。彼は繊細鋭敏な耳でこの囁きを捉え、象徴的に、しかも誰にも容易にわかるように、音楽に表現しました。ショパンは、乙女達がただよわせている清純な雰囲気の中に、天国の幻影の輝きと、虚構の幻影のあせゆく陰を認めました。かれはそこに充満している、焼き尽くすような情熱の意味を読み取りました。彼は人間の心の闇の中を、これらの情熱が衝突し合いながら飛び交う様を眺めました。また優美で、平静で、魅力に溢れた彼女達の整った容姿や動作の陰に、絶え間なく動揺し興奮する心が隠されている有様を見ました。

ショパンの霊妙な魔法のペンの下から音楽という形で創造されたひとつの理想が流れ出ました。この理想は、ポーランド人にとっては真実であり、かれらの心の中心をなす実在、これこそがポーランド語でいうJALで、他国語には翻訳できない、ポーランド独特の、ポーランド国民全体も、個々の人間も、持ち合わせている感情です。ショパンの音楽には、こうしたポーランドのいたる所に感じられている情緒が、極めて自然に流れていました。漠然と断片的にではありますが、ポーランド人すべてが心の中にこれらの感情を持っていました。

 サンドの感受性 一方、サンドはどのような感受性に富んでいたのでしょうか。普通ではちょっと気がつかないような優しさ美しさをサンドはよく発見したものでした。無限の広がりを展望する事が好きだったサンドは蝶の羽の色合いの美しさや野苺の上に張られた羊歯の天蓋の均整の取れた美しさに目を見張りました。サンドには苦しい恋に悩む蝮の地を擦る音が聞こえたり、長い葦や水草を分けて流れる小川のせせらぎが聞こえてきました。野や沼を飛んで行く鬼火の跡を追い、その妖艶な舞踏に誘惑されました。また蟋蟀やそのともがらの奏する音楽に耳を傾け、森の国の翼を持った住民達の名前はもちろん、翼の色から歌声、鳴き声まですっかり知っていました。

サンドは、地球上かあるいは他の惑星に実在する世界、我々が暗い森に沈む月の光を見て想像するあの遠い国へ、自らの翼を駆って翔んでいく男性と知り合いたいと願っていました。そのような美しい国を見出した以上、それを見棄てず、現実の世界へは心も想いもなんら振り向けない男性、そんな男性をサンドは自らの目で見たいと思っていました。そこで出会ったのがショパンです。サンドにはショパンが形而上的な天上の世界に接した不可能なものを夢のごとく追い求める芸術家に映りました。サンドはそのショパンに会いたくてたまらなくなってきました。

ショパンから見たサンド 他方、ショパンは一般の女性を遥かに凌駕し、女性の知らないような事を、デルフィの巫女のように語るサンドに少々恐れを懐いたようです。それでショパンは長い間サンドと会おうともしませんでした。しかしサンドとショパンが互いに相識るに及んでまもなく、ショパンはそれまで意固地に懐いていた閨秀作家への偏見をひとたまりもなく吹き飛ばしてしまいました。

 非凡なロマンティスト同士  私はここに非凡なロマンティスト同士の奇蹟的遭遇を感じます。ショパンがポーランドの農民の中に発見し音楽にした味わいは、サンドが幼少の頃ノアンの野原で発見しその後田園小説にした味わいの多くと共通しているように見受けます。これがショパンとサンドが引き合う基本的な要素だったのではないでしょうか。二人を解くキイーはここにあったと私は見ています。

この後ショパンとサンドは、サンドの子供とショパンの健康回復を祈って数か月、マホルカ島を旅し幾多の困難に遭遇しますが、非凡な二人にはそれがむしろこの現世離れした喜びにもつながったようです。またこの旅を通じてサンドはショパンに対し絶対的な母性愛的愛情を注ぎましたし、ショパンもまたそれに大いに感謝しています。その辺のことは、今回は割愛して、最後にサンドの都会観と田舎観にふれてこのエッセーの結びとしたいと思います。それはパリとペリーの比較だといってよいと思います。

1840年代のフランス サンドが過ごしたフランスの時代背景を眺めてみましょう。1789年に勃発したフランス革命は、「自由」「平等」を標榜し王侯貴族、領主、聖職者といった特権階級の制度崩壊に導きましたが、1830年にはその反動で王政復古を目論む七月革命が起きました。この波は1848年の2月革命まで続きますが、1840年代に入ると徐々に産業革命が興り否応なく従来の社会を変えていきました。ここに新たな階層が生まれたのです。

かつて存在しなかった技術やそれを利用した産業革命の進展で、金持ちの特権階級と多数の貧困層が生み出されました。持つ者はいよいよ富み、持たない者はいよいよ貧乏になりました。サンドが最も強調したのは、すべての基準が金銭にあり、金銭によって支配される傾向が日毎に増大していく現状でした。

個人、作家として円熟し始めたサンドは社会の不平等な現状を小説という形で告発していきました。1840年から46年にかけて発表した社会主義的小説は、パリから地元ペリーに帰ってきた男女の目を通してペリーを中心とした地方の現状を描いています。流通の便をはかるために整備された道路が地元の普通の農民たちにとってどれほど意味があるのか、地方に移り住み、工場を構えた新興ブルジョワたちが本当に地域の貧困層を救ったといえるのか、このようなことを小さな町、村を舞台にしながら遠くパリを意識させる問題提起をしています。

物語は「帰ってきた青年」に焦点が当てられ、その視線はもう二度とパリに向けられることがありません。なぜなら、厳しい自然環境と大都会パリを比較するとき、「大自然」の根源的な意味と、この自然を体現して生きる「自然の人々」の生命力を直観的に理解したからです。野生の自然の美しさと都市と住民の醜さを対照的に取り上げました。パリからペリーへ帰ってきた青年によって再発見された本物の地方・田園・自然とその価値をペリーの姿の一面としてサンドは描きました。

田園小説四部作に登場するのはその地に住むごく普通の人々です。かつての貴族階級に属する人々はまったく描かれていません、作品中に首都パリへの言及はまったくなく、あたかもパリが存在しないフランスであるような印象を与えますが、サンドは本当にパリを意識していなかったのでしょうか。むしろパリを意識的にはずした理由があったように考えられます。

サンドは、農民たちが真に偉大な自然と直接つながり、美を直観的に理解できる存在だと認識しています。彼ら農民は日々の生活の重圧に苦しんではいますが、美を直観する能力はまったく失っていません。ただ語る言葉をもたないだけです。都会を知り、文明化されたゆえにシンプルな美への直観力を失い、自然を瞬時に感じることができなくなった人間たちをサンドは描いています。ここに描かれているのは農民生活の悲惨さや苛酷さではなくて、人間の持つ根源的な生命力の純化された姿です。その意味で田園四部作はユートピア的です。都会にとっては田園地帯は単に癒しの庭であるだけでなく、時の移ろいをはるかに越えた宇宙的生命力とでも表現できる強い力の磁場であるとサンドは訴えています。

私は過去2回のノアンへの旅を通じ、都会の雅と田舎の鄙びが人間には必要だと説いてきました。しかしサンドのこの主張を聞いた今、パリの豪華な王宮も華麗なエッフェル塔も、その煌びやかな夜景も色褪せてきました。それよりもペリー地方の真っ暗闇の中でその姿も現さない森の、木々の頭上に輝く孤高な月の光に魅せられています。これはショパンの曲にもつながる美ではないでしょうか。

今回の旅でゆっくりとノアンはじめラ・シャートルといったペリー地方のよさを皆さんといっしょに味わおうではありませんか。     おわり

中西隆夫(2019.6.29)

 

昨日(4/1)は昼に新年号の発表がありました。その直後の2時から「私の英語上達法」の話をしました。私は昭和62年末から今日まで32年間アメリカの国内放送を日平均2時間聞いてきました。全体で30,000時間、生の英語を聞いてやっと先月の83歳の誕生日に一応のヒアリング完成をみました。新年号からは本式に国際情報として放送を聴きたいと思っています。

私たち日本人は英語に対して相矛盾した思い込みをしています。英語と聞けば目で追ったあの文法を思い出し難しいものに映っています。その裏返しかも知れませんが、海外に行けば耳から英語を聞いてすぐに上達するものと思い込んでしまいます。自分にできなかったことを子どもにはと海外に送ります。留学すればもう現地人並みにすぐにもなれるものと信じています。日本では英語の教え方が悪いといって自分の努力は棚上げのままです。

私たちが幼児の頃、どんなに言葉を覚えるのに苦労したか、少しも自覚していないので、自然に、簡単に覚えたものと錯覚しています。だからこんな錯覚も生じるのです。

言葉はまず聞いてそれを身に付けなければ読みも話しも書きもできません。生れて半年の赤ちゃんがお母さんの発する一言を体で覚えるのにどれほど苦労しているか知っていますか。(メェッ、メメと叱る語調で覚えるのです)一日に3時間聞いたとして、一週間で20時間、一年で約1000時間聞いて、入園、入学するのです。幼稚園に上がるまでには5000時間、小学生になるまでに7000時間も

これに比べて、英会話を週に高々10時間やって出来るなんて思うのはおこがましいです。

私は48歳の時、アメリカの大学の2週間夏期講習に行って散々な目に遭い、目が覚めました。それで51歳から日本の駐留軍向けの米語放送を聴き始め今日に至りました。

あるアメリカの本に、ピアニストも、チェスプレーヤーも、名バスケットプレーヤも、世界級になるためには10000時間が必要と言っています。英語も世界級(つまり母国人並み)になるにはそのぐらいの時間がかかるでしょう。発音機構も、語順も違う英語を51歳という高齢から始めたのですから30000時間ぐらいかかったのも当然視しています。

この体験を脳聴覚や意識・記憶の研究にからめて理論武装し、「どうして英語がうまくならないのか」を話しました。

2019年2月7日 (木)
マンハッタンとの対話

昨日、書斎を整理していると、22年前に書いたエッセー類が見つかった。その一つを掲げてみた。

マンハッタンとの対話

 

ミルバーン・ホテルの三百九号室で今朝目覚めたのはまだ暗い五時半頃だった。隣のベッドではN君がまだ気持ちよさそうに眠っている。外の音がする。ガタガタとトラックが走り去る音がブロードウエィの方から聞こえ、犬の吠える声がする。人の声も聞こえたようだ。昨日、ノースウエスト機で十一年ぶりに訪れたニューヨークは私の頭の中で徐々にそのかたちを作り出そうとしている。今、泊まっているこの西七十六丁目からセントラル・パークを横切って東側に出ればかつて住んだ東七十三丁目や東八十四丁目に出られる。そのあたりは今どうなっているのだろうか。セントラル・パークの落ち葉はもう盛りを過ぎたのだろうか。そんな想いに耽りながら、もうベッドから起き上がっていた。六時十分服を着替え、そっと階下に降りて行った。

ホテルの玄関を出て東の空を仰ぐとまだほの暗く街灯の灯りの方が明るい。しかし、わずかに白みがかってきていて建物の黒いシルエットが美しい。晩秋の空気が肌をさし快い。早起きのアーリーバードたちが犬を連れてホテルの前を過ぎていく。一日の始まる朝の静かな息吹きが私はことのほか好きだ。四、五階建ての堅牢な石、またはコンクリートのアパートが舗道の両側に立ち並びいずれも同じような階段つきファセードを持っている。大きな西洋犬を連れた中年の男女が犬に引っ張られて黄褐色に染まった街路樹の下を勢いよく通り過ぎていく。セントラル・パークに入ると晩秋の風情がいっそう色濃く迫ってくる。手前の樹木も向こうの樹木もみな黄色というより赤褐色に染まり、その樹木の間を縫うように走る舗道を色んな人がジョッギングしている。週末のニューヨーク・マラソンを控えて色とりどりのウインドブレーカーが賑やかだ。パークの向こうに顔を出したプラザ・ホテルの建物や振り返ったときのダコタの城状建物が懐かしい。しかし、セントラル・パークって横切るのにこんなに時間がかかっただろうか。久しぶりの散策で遠回りもしているし、ちょろちょろ小走りに出てくる可愛いリスに見惚れもしているが、こんなに時間がかかるとは思わなかった。きっと日本の小公園に慣らされているからだろう。マンハッタンからセントラル・パークを失くしたらどんな都会になるのだろう。人工的な高層ビルで埋め尽くした都会だからこそ、こんな自然な大公園を真ん中に置いてバランスをとっているのだろうか。

そんなことを考えながらうろついている間に東八十四丁目のメトポリタン・ミュージアム横に出た。いよいよ懐かしい東側だ。すっかり明るくなった街を、車が、人がいく。幅広い舗道、頑丈な石の建物が威風堂々と並ぶ。かつて住んだ東八十四丁目の一番街と二番街の中間に位置するアパートを眺めてみる。いささかも変わっていない。はじめてニューヨークを旅する者ならこんなアパートにだれが住むのかと興味を抱くところだが、私にはそれがない。まぎれもなく私自身その住民だったからだ。いっかどニューヨーカーぶっていた頃の私の残影を私は今あらためてみた思いだ。よく歩いたサード・アベニュー、レキシントン・アベニュー、パーク・アベニュー、マディソン・アベニューを縫いながら東七十三丁目のかつての単身寮も眺めてみた。ここも一切変わっていない。堅牢な建物は外観から見る限りなんらの変化もない。くすんだチョコレート色のアパートはそのままだ。

ここまできたときふっと私の頭を過ぎるものがあった。それはもう一度ニューヨークという都会を私なりに定義してみたかったことだ。私はそれをDUEとした。Dはdiversity、Uはurbanity、Eはethnicity、つまり、雑多性、都会性、人種混在性だ。ニューヨークにはあらゆることの極端がある。道一つ隔てて違う文化が棲息している。美醜を越えた美がある。強いアクセントが存在する。私は同じ方向に群れたがる日本より一人一人の個性を重んじるこの街が好きだ。ニューヨークは真の都会だ。自然の美も美しいが石とガラスとコンクリートの人工美で構成した都会美こそここの生命だ。そして刺激的だ。ニューヨークは一切のまがい物を拒絶する。本物だけが生きる魅力ある街だ。そんな都会が私は好きだ。ニューヨークは人種のるつぼだ。あらゆる人種があらゆる文化の花を咲かす。ブロードウェイのあのくったくない黒人の歩き方を見よ。地下鉄の乗客を汚いとみるか、危険とみるか、それはみんなの勝手だが、私には人間と映る。強烈な個性を発散する人たちだ。こんな鏡に映したとき、どんなに日本人が精彩を欠くことか。色んな人種が愛するニューヨークを私も愛する。こんなニューヨークはこんな私を愛してくれるに違いない。

さて今日から始まる音楽の旅、リンカーン・センター、カーネギー・ホールが新たなるパンチとビートをわれわれに与えてくれることを祈りつつ。 (1997年11月14日)

 

2019年1月2日 (水)
ドビュッシーに寄せて

2018年12月31日 (月)
私は花咲か爺

昔、花咲か爺の話がありました。桜の枯れ木に灰を撒くと花が満開になった話です。私は今、この話を思い出さずにはおられません。

32年前に撒いた言葉の灰が今ようやく花となって7,8部咲きになったのです。

 

1984年8月、ボストンのハーバード・ビジネス・スクールで2週間に亘る夏期セミナーを受講しましたが、教授陣や他の社会人学生が話す英米語が皆目解らず愕然としました。

 

そこで帰国後、51歳から始めたのがアメリカの国内ニュース放送の聴き取りでした。

始めは頭の中が真っ白、シャーシャーという音がするばかりで言葉といえたものではありませんでした。まさに花咲か爺の灰そのものでした。

話し言葉、耳で聴くニュースを一度、粉々に潰し壊したと仮定してみてください。文を潰し、単語を潰し、音韻を潰していきますと、最後に残るのは莫大な量の音素だけです。これが花咲か爺のザルの中の灰です。

次にこの灰を撒いて耳だけで元のニュースに仕立て戻すと仮定してみてください。百%戻った時が桜満開の時です。莫大な量の音素を音韻に、音韻を単語に、単語を文に、文を文章に次々と戻してついに元のニュースに仕立て戻すのです。私はいわばこの仕立て戻しに32年の年月を掛けたというわけです。

 

私は幼児体験をした

私は、幼児の時を、51歳にもなって経験しました。幼児は母親の音声を聞いて言葉を発達させます。幼児にとって母親の音声は何でしょうか。まだ言葉というものの概念はありませんから、ただ母親の口から出た音を無意識に耳で受け止めているだけです。たとえば、1歳児に母親が「ちょっと、こっちへおいで」と言ったとします。1歳児には何を意味しているのか解らない、ただジェスチャーで手招きしたり、語調がきついから、母親の方向に動こうとするだけです。この時、1歳児の脳には日本語特有の音素、たとえば母音の響きが段々と記憶され次に同じ母音が来た時にその記憶でその母音と判断するのです。

chottokocchiheoideが繰り返されると、母音のoが一番耳についてくると思います。私たちは自分の幼児体験を忘れていますが、言葉は、音素聴き取りからだんだんと音韻聴き取りへ、単語聴き取りへ、短文聴き取りへ、そしてついに長文聴き取りへと順次発達していきます。

幼児が車を見て「ブーブー」と単語一つを発したとき、それから半年して兄を見たとき「兄ちゃん来た」と短文を発したとき、時間掛けて「聞ける」と「喋れる」ものだと感心したものでした。

私たちは胎児のときから母親の音声で日本語というものを覚えました。幼稚園児になるまでにどのくらい母親の声を聴いたのでしょうか。一日に、かりに3時間として年間1千時間、6年間に総時間6千時間にもなりました。これだけの時間を掛けて取得した日本語で幼稚園に上がったのです。この6千時間を「しか」とみるか「も」とみるかは問題認識の仕方次第です。

標準語で喋る母親なら幼児も標準語は解りますが、大阪弁は解りません。逆に大阪弁で話す母親なら幼児は、大阪弁は解りますが、標準語は解りません。脳はその音声の質量を刻むのです。

 

今、日本で幼児や小学生の英語教育が盛んに語られていますが、このいわば言葉の初歩的な発達の道筋が少しも触れられていないのが私には非常に不思議であり不満です。知らず知らずのうちに日本語なら毎日3時間も聞いています。しかもテレビなどで標準日本語で聞いています。

英語を週に高々10時間やるとか、母国人でない人の発音でやるとか、聞くことよりも自分を表現する、つまり喋ることに重点をおくとか、こんな英語教育で英語が上達するわけがありません。

私という日本人が、50年間も日本語で鍛えた、くせのある脳を使って、51歳から、英米語という異質の言葉の、背景常識も要るニュースを耳だけで聴いて理解するのに32年も掛ったのですが、よく考えてみればこのぐらいの時間が掛っても少しも不自然ではなかった気がしています。

中西隆夫(18.12.31)

2018年3月12日 (月)
私のシンギュラリティー

今日は「やったぁ」と歓声を上げたい日です。52歳から82歳(今月22日が誕生日)までの30年間、毎日欠かさずに聴いてきたアメリカ国内放送の一つ、NPR(National Public Radio)のニュースがやっと今日そのままで理解でき始めたのです。シンギュラリティーというのは、今、流行りの人工知能が人類の知能を超え、世界を変える転換点(技術的特異点)に達したことをいいますが、同じようなことがこの私の脳内で起こったのです。

これからの私の世界は変わって行くと思います。私は英語を母国語とする人たちがどのような感覚あるいは語感で英語を理解しているのか、それが知りたくて、この番組を聴きはじめました。

というのは、普通の日本の英語教育で育った私が、48歳の時、アメリカのハーバードビジネススクールで128人のアメリカの社会人学生に交じって(日本人は私一人)、二週間の英語による夏期講座(情報管理システム)を受けましたが、その英語が全然分からず、英語が得手だったはずの私はその悔しさのあまり日本に帰国するなり英語放送を聴きはじめました。

51歳から61歳の10年間に亘るヒアリング体験については、私の自費出版本「私の英語遍歴」に詳しく書いています。ご興味のある方はTMCJまでお申込みください。定額(2,500円)を1000円でお譲り郵送します。

 

この30年間を振り返ると一つの学習カーブが見えてきました。

それは 100=at3 です。全然何も聴けない状態を0とし、

全面的に理解できる状態を100とします。

aは年齢や前知識の程度による定数

tは時間、月数で算出

 

30年は360か月  つまり 100%=a x360x360 x360

よって  a= 0.000002143

 

例えば、 20年目の時の状態    20年=240か月

0.000002143x240x240x240=29.63%

 

 

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30年も続けられた理由:

スタートして間もなく、次の件を読んだこと

1.アルフレッド・トマティス博士(聴覚心理音声学者)が、母語以外の言語を学習すると、神経組織や筋肉組織が次第にその新しい言語に特有の形をとりはじめる。言語を習得するということは、母語であれ外国語であれ、そのメカニズムは結局のところ同じである。言語の習得が、耳を通して行われることには疑問の余地はない。耳による習得が本質であり、第一義である。言語は聞くこと、それも正しく聞くことによって学習されるのである。

さらに続けて、

聴覚器官も明らかに、練習を重ねることによって最終的に適応していく。しかし、そこまで到達するのにあまりにも時間がかかるので、その前にあきらめてしまうことが多いのだ。ただし、耳がきわめて柔軟であれば、水槽に浸るのにそれほど長い時間をかける必要はない。柔軟な耳はたちまちのうちに新しい言語の周波数に順応し、次々と現われる新しい「音の水槽」に適応していく」と。

そして、

この新しいアプローチは、胎内にいる時期を含めて幼児から九十歳のお年寄りにまで、だれにでも、母語以外の言語を習得する可能性が開かれていることについては、もはや反論、あるいは議論の余地すらない。四十歳を過ぎたらバイリンガルになることは不可能だ、などと昔からいわれてきたが、そのような説は根拠のないものである。

2.毎月一回必ず昨日までとは違う突然変異的な隆起を感じたこと。

月の引力(満月の日か)で、ある日、突然脳内の水分が強く引き上げられ脳内の英語理解神経ルートが広がるためではないかと思っている。

毎月少しずつでも階段的に、そしてどんどん加速度的に上昇して行く実感を感じ、必ずやいつか達成する日がくると強く信じた。

余禄

リスニングだけではない。リーディングも聴くと同じ速度と感覚で理解できてきたこと。英語を英語のまま直にまるで日本語を読むように理解でき始めた。毎日、NPRのテキストを読めるのが嬉しい。

感想

あらためて思うのは音楽と楽譜の関係である。生の音楽を聴かずして楽譜だけを見ても音楽の迫力はない。英語の本格的なリズムを聴かずしてテキストだけで勉強してもそれは本物ではなくて、あくまで“もどき”である。

 

 

2017年10月16日 (月)
クラシック音楽って何?

13年前に書いたエッセーが出てきたので掲げてみる。

クラシック音楽って

 

先日、かつてベストセラーになった「絶対音感」(最相葉月著)を読み直していて、あの世界的に有名な作曲家にして指揮者、L.バーンスタイン(ミュージカル“ウエストサイド物語”の指揮など)の「音楽って何?」と題する言葉に出会った。孫引きの上、我田引水めくので恐縮だが、ちょっと引用してみたい。「…大切なのはこのリズムが僕たちを興奮させ、ワクワクさせてくれること。…ワクワクするのは、ワクワクさせるように音楽が書かれているから。…みんなだって何かが自分に起こったとき、踊ったり歌ったりして、自分の気持ちを表現してみたくなることってあるでしょう?絶対あるよね。作曲家にもあるんです。…音楽の意味っていうのは、これなんです。シャープとかフラットとか和音とか、むずかしいことをたくさんわかる必要はないんです。もし、音楽が何かを私たちにいおうとしているなら、その何かというのは物語でも絵でもなく、心なんです。もし音楽を聴いて、私たちの心の中に変化が起こるなら、音楽が私たちにもたらすいろいろな豊かな感情を感じることができるなら、みんなは音楽がわかったことになるのです。音楽とはそれなんです。物語や題名はそれに付随したもの。そして、音楽が素晴らしい点はみんなにいろいろな違った感情をもたらすことができること。それには限界なんてないんです。…音楽は音符の動きです。忘れてならないのは、音楽は動いているということ。たえずどこかへ動き続けます。音符から音符へ飛んで、変化して流れていきます。そしてそれが、何百万という言葉でもいい尽くせない心を伝える方法なんですね」

(p240~242)

私自身、音楽はそのようなものとずっと考え、その考えに基づき自分のホームページを作ってきた。が、内心いつもどこかで忸怩たるものがあった。今月、これを読んで心底救われた。今までの姿勢を貫いてよろしいとこの天下の指揮者にお墨付きを貰った気分になった。もう一度要約すれば、①専門知識より心、②いろいろな感じ方があっていい、③音楽は動いているもの、④言葉では言い尽くせない心、この四要件になる。

相当以前の話だが、うちでクラシックファンが集まってクラシック音楽について語り合ったことがある。この機会にそのことについても少し触れておきたい。

まずこんな質問が出た。クラシックはどこで聴くものか。A君「ロックなどはからだ全体で聞く。演歌などは胸で聴く。クラシックは頭で聴くものと考えられがち」B君「クラシック愛好者も最初は胸で感動していたが、知識が増えるにつれ頭で聴く傾向が出てきた。クラシックには教養主義的、形而上学的色彩が濃く、俗化させたくない意識がある」B君「よって<超技巧…>などと一般受けしない表現が多い。「英雄」などの副題があると大分違う」中西「マニアックな人たちの話題にはついていけない」

次の質問。本当にクラシックファンは少ないのか。C君「隠れたファンはいるにはいるが自らファンと名乗ることは少ない。何かのキッカケでそれが判明する。次。クラシックはどうして近づきにくいのか。B,Dの両君「今は視覚偏重の時代。視覚に訴えられないものは受けない。聴覚だけでは物足りない」E、B君「今はインスタントな時代。ちょいちょいといいところだけをつまみ食いする時代。長々と半時間、一時間と聴く辛抱がない」中西「今はラフな時代。姿勢を崩さず、咳一つせず、静かに居座る苦痛に耐えられない」次。クラシックの質は。D君「クラシックは20世紀前半までに作曲されたもので作曲者の顔が見えない。親近性がない。舞台の演奏家と聴衆の間に一体感がない。舞台と客席の間の物理的、心理的距離が問題」B君「楽譜に忠実に演奏することが求められるものゆえ、創造性に乏しい」など。

前号でも書いたが、人それぞれに好きな音楽を聴けばよい。それが心を打つものであればジャンルを問うことはない。しかし今あらためて思うに、他のジャンルの音楽を聴いて、今のようなコメントが書けるだろうかと。むしろクラシックだからこそ書けているような気もする。それほど強くクラシックは私の心を打っているのかも知れない。

ホームページ

www.diana.dti.ne.jp/~tmcjapan

 

(2004.2)

2017年8月11日 (金)
最近の英語ヒアリング

アメリカ国内放送で私がいつも聞いているのはNPR(National Public Radio)のHourly news(毎時の5分間ニュース)である。このところ北朝鮮のグアムに向けた4発の弾道ミサイル発射計画とそれに対するトランプ大統領の怒り警告でもちきりである。

 

例を挙げると次のようである。

As tensions with North Korea escalate, President Trump received briefing from his security advisers: North Korea threatened this week to fire weapons into the water just off the U.S. territory of Guam.(32語)

この英文の長さと構文は特別に複雑なものではない。これを分速300語で喋るアナウンサーなら5,6秒で喋る。だから、私の耳もそれぐらいの速さで解さなければならない。5分間ニュース全体ではこの文の50倍ぐらいになるから、それだけを理解することになる。

何も見ずに耳を澄ますだけでこの大意を掴まなければならない。それがどうして可能なのだろうか。言語学者のノーム・チョムスキーによれば、人間の脳にはそもそも生まれつき文法を解する能力が備わっている。何語においても同じで日本語の文法であれ英語の文法であれ文法の基本ルールが備わっているからこそどこの幼児でもその言葉が聞け話せるのだという。

われわれは無数のニューロン(神経細胞)をもっている。それは砂みたいなものである。浜辺で砂の城を作るようにニューロンという砂でいろんな物を作る。初めは1センチの小山を作るにも骨が折れた。砂を積んでは崩れまた積む、その繰り返しであった。次第に形をなした山となり、やがてその上に何層もの山を積んで城となる。はじめからそのような城の設計図があるわけではない。試行錯誤を繰り返し、繰り返ししている中に、砂が定着する。Northという単語も一粒の砂ならKoreaもそうである。その二粒がいつも繋がって出てくると脳はそれを一つのセットとして扱うようになる。PresidentとTrumpの関係も同じである。

最初のasも一つの砂だが、これがここに出てくると、いずれ後にそれを受ける砂が出てくると予感させる。Asなど弱く発音され、聞きもらすほどだが、鍛えているうちによく聞こえ、その意味も無意識に覚ってくる。日本語で”しかし”の意味の「が」は弱い発音だが、それを聞くと、その後に何か反対のことが出てくると予感させるのと同じである。

このような文構造が理解できるのは何と言ってもアナウンサーの抑揚とリズムである。波打つような調べである。きちんと止まるところ、全然止まらないところ、その中間体が声の強弱とともにあるから文を脳の中で分節できるのである。これはヒアリングだからこそできる技で文を一人で読んでいる限り、それができないから文意も取れないし、取れても時間が掛る。なれてくればヒアリングの方が読むよりもよく意味がとれるようになる。

以上のようなことは意識でできることではない。無意識がひとりでにやってくれることで、その世話にならずしてヒアリングなどできたものではない。

しかし、無尽蔵にあるはずの無意識でも一瞬にして何事も同時にやれるものではない。

炭鉱夫を思い出す。目の前の固い岩盤(これから読もうとする文)を見詰めてつるはしを下し(無意識で処理し)、削った岩(読み込んだ文)をトロッコに乗せ(短期記憶して)、たまり場(文意記憶場所)に運んで積み上げる(全体の大意をとる)、この作業の全てを一瞬にこなさなければならない。つまり採集(読み取り)と加工(意味検索)と保存(意味保存)を瞬時に行われなければならない。

しかし毎日訓練を重ねるうちに微分的歩みだが、すべての行為がより少ない時間でできるようになる。

ここでおもしろい現象がある。それは月一回びっくりするほどよく解る日があることである。満月の頃だ。月の満ち欠けが引力に関係し人の生理に影響を与えるように、この満月の時は一番引力が高まるので75パーセントも水でできている人間の身体はその影響を受け、この日ばかりはいつもより脳への血液のめぐりがよくなるからだと考えている。いままで水を被ったことのない砂がこの日ばかりは水漬けとなり、それ以後、それも城作りに参加する砂となるみたいである。

ここまでヒアリングが続けられたのはこの月一回のジャンプがあったからで、これが楽しみでやってきた。今までぼやっとして焦点が合わなかったものが、こうして徐々にはっきりとしてくる過程は本当に楽しみなものである。

(2017.8.11)

追記

2017.9.7

ヒアリングで気付くことは、英語はリズム的、日本語はメロディー的であること。

それは英語が名詞中心で句型が多いため、句を単位として音がリズム的に連なる(スピーカーのイントネーションで解る)のに対し、日本語は動詞中心で節型が多いため、(スピーカーの平板な)長たらしい音がメロディー的に響くからだ。

英語のヒアリングで、句単位の意味が次々に解り全体として意味も取れてくる場合はジグゾーパズルの色んな形をした片(ピース)が次々にピチっと前のものに隙間なくつながり、詰まったピースの全体も大きな面積として解る感じ。

日本的な節型をそのまま英語に逐語訳しても、関係代名詞が多発するだけで本来的な英語にはならない。このリズムがとれてくると英語らしい英語が書けるようになる。

2017.9.9

今日、9月9日、桐生が100メートル走で10秒の壁を破る9.8秒の成績を出した。それと同じように厚い、厚い生英語放送の壁をやっと突き抜けた感じが同じく今日した。にわかにかなり細かな点まで意味として聞き取れてきた。ジクゾーパズルの絵を見る感じがし出した。

2017年8月9日 (水)
齢と脳

齢と脳

齢も80を過ぎると、いよいよ「自分らしさ」を追求したくなる。One and onlyの世界である。

人間には二つとして同じ顔がないように人はみなそもそも唯一無二なものだが、生き方をベースに考えると、そこには類型があり、必ずしも唯一無二とは言い難い。今日も世界陸上の模様をテレビで観戦していて、勝負を争う選手の生き方に相違があるとは思えなかった。

それでは、人がその人らしく、他人と違った生き方をしているとはどういうことか。それはその人の脳に刻まれた痕跡、形跡が他人のそれと違っていることだ。

人は生まれ落ちた瞬間からそれ以来、休むことなくどの瞬間も脳を使わずに生きてはおられない。三つ子の魂百までとはよく言ったもので、人の言動は生後から現今まですべて脳の支配するところであり、その形跡は記憶され、よく使う脳の部位はよく発達し、強化され、使わない部位は未発達のままで残る。

私は人をざっくりと動詞型、名詞型、形容詞型の三種類に分類する。動詞型は行動派、名詞型は知性派、形容詞型は感性派で、だれでもこれらのすべての要素を大なり小なり持ち合わせているが、とくにその人の目立った部分で色分けしている。動詞型の典型はスポーツマン、名詞型のそれは学者、研究者、形容詞型のそれは芸術家といった具合である。

人がどうして今の職業についたか、それはその人の脳に訊けば解る。幼少の頃からの色々な生活体験が脳に刻まれており、それが得手ないし無難と思われた職業を選ばせたのである。そしてその職業に付くことにより、いよいよその方面の脳部位が発達し強化された。反面、少しも使わない部位は未発達のまま残された。

 

ここで私の場合を取り上げてみる。明らかに形容詞型である。

私の幼少時を辿ると同居していた祖父が表具師だったため物心ついたときから書画骨董を身近で無意識ながら見てきた。無意識ではあるがそれにより私の視覚神経部位が幼少の割には発達していたかも知れない。それがいうところの三つ子の魂となり、発芽となってそれ以後どの年齢においても美術に対する関心はあり、それが強まり今日に至って絵を描いている。

また父が私の幼少の頃からこれからは英語が大切と説いたことから英語好きになり、学生時代を通じ、また社会人になってからも英語を鍛えたが、それらはすべて私の言語中枢を発達させ強化させた。

美術や英語が好きになったのはこのような次第である。

そこに新しく加わったのが音楽である。

結婚するまで私の生活環境に特段、音楽に言及するほどのことはなかった。これまた脳のよく知るところで、この聴覚神経が発達していたとは到底思われない。

しかし、妻が音楽に特化した女性だったため、次第に音楽に目覚めた。しかし、それは三十歳半ばからで、運動神経が未発達な私に、運動神経のいる楽器を扱うことは不向きと断じ、できるのは音楽鑑賞だった。とくに定年前後からはクラシック音楽を中心に聴いてきた。自前で音楽ホールを作ったこともあり、このホールや他の場所で催したコンサートも今や500回以上を数え、常に演奏家の生の音に接してきた。これが私の聴覚神経を異常に発達させたことは間違いない。

話が少し元に戻るが、私の英語好きの特長は、リスニングにある。51歳から始めたアメリカ国内放送の聴き取りである。まだ聴き取れたとは言い難い。が、間違いなくその聴覚開発途上にあり、これからが楽しみな領域に入った。

 

世の中には美術の専門家も音楽の専門家も英語の専門家も沢山いる。その人たちにとって、それはその専門領域であり、たやすく他人が追随できるところではない。英語の場合は少し違う。ことは読み書きではなくリスニングである。中でも米国の国内放送が聞けるリスニングである。例外はあるとしても帰国子女でなければできる技ではないと思う。

80を回った私の「自分らしさ」をいよいよ磨いて行くためには、以上の三つ、絵描き、クラシック音楽鑑賞、英語リスニングの総合である。音楽の聴覚野と英語の聴覚野、これらは脳部位でも近くに居合わせ何らかの相互作用があるはずである。また絵画の視覚野も音楽の聴覚野と視聴覚として底辺で繋がっているかも知れない。

これからの脳活性化が精神的、肉体的若さ保持の秘訣である。

(2017.8.9)