ここ数日、久しぶりに西川悟平君に会っていろいろと懐かしい思い出話をした。

 

彼のタブレットから聞こえてくる彼の生の英語はもう現地人が話すのと何ら変わらない。24歳から18年間、滞米して身に付けたものだが、長くいたからといって誰もが出来る技ではない。彼の器用さに驚くほかない。ほとんど英語の喋れなかった彼、その彼が、ピアノ同様英語も完全に征服してしまったのだ。

 

20年ほど前、彼がアメリカに行く前に私が自費出版した本に「私の英語遍歴」というのがあり、それを彼に一冊贈った。当時彼はそれを何回も読んでくれたらしく、昨夜いうに「ボク、よう覚えてます。あの本の中に、こんなことが書いてありましたね。英語放送を聞いて40パーセント解るとか60パーセント解るという人がいる。が、それはおかしい、100パーセント解ってはじめて40とか60と言えるのであって論理矛盾だと。よく覚えてるでしょう」というのだ。いやよく覚えてくれていると感心すると同時にこの本も少しは彼の役に立ったのかと嬉しくなった。

話し変わるが、ピアニストの彼がピアニストとして命取りのジストニアになって指が動かなくなった。懸命のリハビリを繰り返し、もうほとんど治らないと見做され、見放された指が七本だけ動くようになった。彼はこの七本の指だけで十本分の動きをしようと鍵盤の上で腕のアクロバットを演じる。だれも経験したことのない不可能を可能にした彼だけの、あるいは彼ならではの演奏である。これは不自由を味わった者だけの特権のような自由である。それがどのようなものかは他人は想像する他ない。

 

実はこれが私の英語放送リスニングにあてはまるのだ。私はアメリカの国内放送であるNPR(National Public Radio)を51歳から聞き始め、今の81歳になるまで30年間聞き続けた。その甲斐あって、今年の3月の誕生日ごろから聞くだけで放送の大意が掴めるようになった。いよいよこれからが楽しみである。

 

何事も一万時間かければものになる。0、0001も一万掛ければ1になるが、0,0001を0と見なすから物事が成就しない。悟平君との話から思わず以上のようなことを考えていた。

 

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昨日(2016.9.13)は曇り空の下、数十年ぶりに倉敷の大原美術館を訪れた。仲間は高校同期八人(80歳)で、誕生したばかりの趣味同好会「アートにふれる会」の元気者ばかりだった。前回行ったのは現役時代、まだ自ら絵筆を握っていなかった時代だから、今回の絵の見方とは違った。

今回はゆっくり気が行くまで各展示画を堪能した。ある学者によると、一般的な日本人の絵の見方は解説読みに平均一分、実画を観るのは平均10秒という。今回、私は一切解説を読まず、その時間を実画鑑賞に当てた。観るなりアピールしてくる絵もあれば、見入っているうちにじんわりと良さが上ってくるのもある。どうして観るなりアピールしたのか、

この中央の黒い太線だ、この左下の赤い布だと少しずつ詮索している中に絵の全貌がまったく違う形で迫ってきた。明治、大正期、まだカメラもない時代に、どうして舞台裏の踊り子をこのように生き生きと描けたのか。その場で写生ができたはずもないのになどと愚考した。今の世は写真で溢れかえっているが少しもリアリティがない。絵やスケッチこそにリアリティが潜んでいる。

前回観たときはエル・グレコの「受胎告知」が高いところから大きく吊るしてあったように記憶するが、今回の場所で見るとそれほどでもなかった。好きな絵は色々あったが、特に見入ったのはモジリアーニと佐伯祐三の絵だった。

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昨日(2016.6.30)はディヴィッドの提案で姫路城とその西北にある書写山に行きました。曇り空で少しぱらつくこともありましたが、暑くも寒くもなく絶好のハイキングびよりでした。最低4時間は歩きました。白鷺城の急な階段もものかは若いディヴィッドに負けず6階の天守閣まで登りました。昔の城を知っている者としてはちょっと白過ぎて一瞬戸惑いました。

天を突く  白い裃姿の白鷺城   ちょっと青白く   威厳が薄れられたが   お若くおわした

Himeji castle  Dressed in  White ceremonial kamisimo  Looks pale and less dignified  But younger than before

黒田官兵衛ゆかりの書写山は白鷺城よりもっと魅力的でした。西の比叡山という感じで、千年前の日本に戻ったようでした。もう今の私たち日本人は西欧人と同じ目でしか物が眺められないのでしょうか。こんな古刹に来ると昔の血が騒ぎます。千手観音が居並ぶ林を2時間ほど歩き、写真自由というところでは陳列物を次々に撮りました。インドや中国がそこにありました。今、欧米がそこにあるのと同じ感覚でしょうか。

黒田官兵衛ゆかりの   書写山   もやった森林に  黒餡のような古刹   まるで草餅にいる気分

Kanbei related   Historical Shoshazan is   As in kusamochi dotted   With some old dark temples   In a hazy forest atmosphere

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今日(2016.6.26)は西宮の芸術文化センター小ホールでジャン=ギアン・ケラス&フレンズの珍しいコンサートを聴いた。タイトルは「地中海の風」、(ペルシャ、ギリシャの音楽、チェロと民族楽器が出会う時)とある。舞台に登場したマスクはどれもこれも西欧のそれではない。黒い顎鬚などを見ているとギリシャ正教の司祭かユダヤ教のラビに思えてくる。チェロが静かに、静かに語り出した。哀愁を帯びている。まるでか細い尺八だ。アルプス以北の音楽に慣れた耳には、これが本当に地中海音楽なのかと怪訝に思うぐらいだ。次はライア。古代ギリシャの神々に発するこの楽器は音こそ小さいが、この音が醸す、ホール全体を覆うような宇宙的雰囲気はギリシャの神々を包み込むように典雅だ。次はイランの太鼓のザルブとダフ。二人の奏者が両手10指を小動物のように動かして、しなやかに小気味よくリズミカルに撫で、つつき、叩く。古代ギリシャ文化がヘレニズムで東方の古代ペルシャ文化と融合し、また後にビザンチン文化となってアラブイスラム文化と融合したことを思うとき、この地中海の風は興味津々、最後の方の演奏ではベリーダンスを見ながらアラビアンナイトの一夜を過ごしている気分になって、実に楽しかった。

2016年5月9日 (月)
英語ってね

英語ってね…

 

私がかつて海外に駐在したと他人にいうと、「それではもう英語はペラペラでしょうね」とか「映画など字幕を見なくても分かるのでしょうね。羨ましいなぁ」などと感想を漏らされ、「いや、その…それがうまくいかなくて、…」と一瞬返答に窮していると、「またまたご謙遜を」とくる。他人からそういわれて悪い気はしないから、「まぁね」と分かったふりをするのは簡単だが、事態はもう少し深刻である。残念ながら、映画などいくら海外にいても少しも分からないからである。同じ海外でもだれ一人日本人がいないようなところで四六時中、英米人に混ざって10年も生活したのなら別だが、日本をそのまま現地に持ち込んだような環境で現地の映画を見ても分かるはずがない。だから正直にいえば、「それがうまくいかなくて…」の方が正解だが、「分かる」といいたくなるのも人情である。10年も海外にいて少しも分からないというのではあまりにも自分が可哀想すぎる。だから「分かる」といいたい気持ちと「分からない」という実感をないまぜにした適当な返事でその場を濁すことになってしまう。よく知っている、たとえば会社の同僚、または得意先といつもの話題をいつものとおりやっている限りは問題のない口語英語も、映画となると同じようにいかないものである。

だから米語放送(AFN、アメリカンフォーシスネットワーク)の一つも聴いて耳を慣らせばそのうちに映画も字幕無しで楽しめるだろう始めた英語放送聴きだった、それがそう簡単に問屋が卸さなかった。実際、その英語放送を耳にした人なら分かるとおり、それは音の洪水以外の何ものでもない、こんなものを10年間も聴き続ける人の気が知れないと思われるのも当然で、それを長々とやってきた私は自分でも相当おめでたく出来上がっていると思う。どうして10年間もやってこられたのか。それは、最初はこれほど長くかかると思わなかったからということと、それでいて4,5年はかかると覚悟していたからである。海外に帯同した日本生まれのこどもが現地校に溶け込むのに4年はかかると聞くし、実際我が子を二年半現地校に行かせた経験からもその程度でものにならないことを知っていたから、4,5年はかかるとみていた。もし初めから10年もかかると知っていたらやらなかったかも知れないし、4,5年の覚悟がなければ途中で諦めていたと思う。51歳も回ってからのいわば修行だったが、それでも年齢を超えて聴覚的進歩が毎月確認できてきたので、これを重ねていけばいつか必ず聞ける日がくると確信し、途中で投げ出すこともなくここまでやってきた。

英語はやればやるほど難しいことが分かってくる。このAFNに出会う前は主にリーディングをやっていたが、英字新聞ならまだしも雑誌TIMEともなると、なかなかおいそれと読めなかった。それでも何とかしてそれをスラスラ読みたい、そして、できればAFNも聴きたい。そんなことを考えている時、「TIMEが読めればAFNも聴ける」を何かで読み、なるほど「読んで分からないもの、聴いても分からないか!この貧弱な読解力を解消しないで、AFNを聴くのは厚かまし過ぎるか」と、TIME読みに精を出したが、目立った効果はなかった。当時から「聴く」のは「読む」より難しいことが分かっていたから、読む力がつけば聴く力も自ずとつくと単純に考えていた。しかし今考えるとそれは間違い、かりに読む力がついてもそれが聴く力につながったとは思えない。読む力がどんなに速くてもオンライン的に意味処理しなければならない聴く力にははるかに及ばない。オンライン的に意味処理しなければならない聞く力はオフライン的に意味処理をしてもよい読む力に比べ余程強烈である。「大は小を兼ねる」と同じで「速は遅を兼ねる」だから、実は前提が逆で、「AFNが聞ければTIME」も読める」でなければならない。実際に私の経験ではAFNはまだ聴き取れなくても、TIMEは目立ってよく読めるようになった。これだけでもAFNリスニングをやった甲斐があったというものだった。これを裏返していうと「聞けもしないで、よく読めること」となる。やはり読む場合も聴く場合と同じくオンライン的に味わってはじめて本物といえそうである。何もこむずかしく考える必要はない。日本語だってそうだ。テレビの解説が聞けなくて新聞の解説が読めるというのは少し不自然である。

翻って考えてみると、AFNなど本来私に聞けるようなものではない。AFNは他国人の母語だからで、われわれの日本語もそう易々と他国の人を寄せ付けないように、英米人の英語もわれわれ日本人をそう易々に寄せ付けない。母語は本来そのコミュニティー内で使われる言葉であって、その一員として生まれてはじめて身に着くもので、コミュニティー以外の者が近付こうとしてもそう簡単にいかないものである。テレビにラジオ、映画などのマス・メディアも基本的に母国人を対象にした母語世界のものであり、外国人の私に分かるはずのないものだが、そうとも知らずにやってきた。理屈で考えればそう易々とできるはずのないものを、知らぬが仏でやってきたともいえる。実際、今だからこそ覚めた言い方をしているが、最初は読む力がつけば聞けるものと勘違いし、フランス語でなく英語である限り聴けると錯覚していたようである。しかし、そう勘違いしたからこそここまでやってこられたので、他人の母語など聞けるわけがないと頭から判断していたら、やろうとすらしなかったかも知れない。

このような私の実体験からすると、巷に溢れる「楽に」「楽しく」「短い期間で」達成できる英会話など信じられず、その安直さを嘆かずにおられない。誇大広告で無節操というものである。

一つだけ例を挙げると、もう昔の出版物に『放送英語』という大学教授が書いた本がある。それはニュース英語聴解のための学習法を述べたもので、次のようにある。

テープから流れ出るアナウンサーの英語をそのまま声を出して、最後まで追いかけていく方法、つまりアナウンサーの声に密着し、「重ね読み」していく方法です。そのためには、英語の音声に全神経を集中し、一瞬のためらいも許されません。初めのうちは速い英語の流れ(Stream of Speech)に取り残され、follow upすることは困難でしょう。しかし、誰でも毎日二十分ぐらい、一週間も継続的に実行すれば、口ごもることなく、スラスラと英語が口をついてでるようになります。…

私はこれらの宣伝が語学を本当に愛し熱心に真摯にやろうとする人たちを欺いたり、意気消沈させないことを祈らずにはおられない。語学下手で定評のある日本人、アジアの中でも最悪の部類に入るといわれるわれわれ日本人はもっと語学に対し謙虚な根性を据えて取り組むべきでないだろうか。

私は自分の英語体験記である「私の英語遍歴」という本を自費出版した。(1997年4月、ご希望者はこのホームページでお申込みください)それを手にした友人の英語研究者がいうに、「この本は売れない。良書過ぎる。本当のことを書いたのではダメ、簡単にできるように書かなければ売れないから出版社が嫌がる。書き直しを迫ってくる」というのである。この本もおそらく大学教授がこのように書いたとも思われない。おそらく出版社が大水増しをやらかしたのではないかと思っている。

(2005.3.22)

私はこうして英語を

身につけた

私が英語を学び出してから55年が経つ。一口に英語と言っても切口は多い。私の場合、時事英語が主流で、新聞、雑誌、放送といったマスコミ英語といってよい。仕事としてではないが、ほとんど毎日この種の英語に触れ、少しでも多く、早く、正確に読み聞きしたいと思って続けてきた。長い過程の割には、一向に進まない願望だが、五十歳過ぎからやり出したAFNリスニングが最近、大きく功を奏しはじめた。今日は「私はこうして英語を身につけた」話をしよう。(添付図参照)

私たち日本人は伝統的に英語を目から活字を通じて学んできた。が、その土台となるべき本来の音を耳から学んでこなかった。英米人が目から母国語を学ぶとき、すでに耳には強固な音の土台が出来上がっている。音土台の無いまま活字だけで言葉を学ぶのは不自然だ。活字は、本来、生の音を保存するために発明された、いわば音のベール、いやフロシキだろう。そのフロシキを何個も横一列に並べたのがテキスト。フロシキとフロシキの間に隙間があって便利だが、このフロシキを解いたらどうなるか。飛び出してくるのは裸の音だけ。戸惑いし、なすすべを知らない。放送なら、確実に音の濁流が耳を襲う。しかし、これこそが英語本来の音だと悟らなければならない。私は五十一歳のとき、この禁断のフロシキを解いた。以後、今日まで十六年間、フロシキを解いたままだが、最近、それが整然とした意味音に変わってきた。フロシキに包んだ音を目にするよりも生の音を耳にした方が自然になってきたし、読むよりも聞く方が少なくとも部分的には楽になってきた。

四十歳代までの私の英語はフロシキ英語だった。視覚に訴えるだけの活字英語だったが、脱フロシキ化過程を経て、六十七歳で脱フロシキ英語となった。今や視聴覚とも働かせる英語になった。脱フロシキ化過程を通じてフロシキ英語の読みも早まった。これでかつての願望も一段と進んだ。

脱フロシキ化過程はホップ・ステップ・ジャンプの16メートル(十六年)のようだった。日本語音に慣れ切った耳に異質な英語音を定着させるのに5メートル(五年)、辞書的、文法的に英語の意味を英語のまま理解するのに5メートル(五年)、文頭から文末まで発語順に統語的、話題的に意味総括するのに6メートル(六年)がかかった。

これらの多くの処理を意識的にすることは不可能である。私たちの意識(=注意)は実に脆い。電話番号を覚えるのにも一苦労する。そんな脆い意識(注意)でいくらがんばってみても言葉は覚えられない。言葉はほとんどすべて無意識のうちに処理されなければならない。無意識は無尽蔵である。発音、意味、他の単語との意味連合などすべて無意識がやってくれる。言葉は人類の特権だけに無意識内でよく発達している。そこではむしろフロシキは邪魔だ。生の音だからこそ処理できる機能が備わっている。肝心なことはこの機能がフルに使えるようになるまで神経回路を発達させることだ。時間はかかるが、その結果、注意(=意識)の対象が話題の大意など、本来知りたいことに絞られたとき、言葉の処理は完結する。この方向に向かって今も進歩を続けている。「読めれば聞ける」の逆で、「聞ければ読める」が私の実践哲学である。(2003.4)

絵の効用

 

独り油絵を描く。2000年暮れから習い始めた油絵、もう二年半以上になる。最初の頃に描いた絵を今見るとやはり拙劣と言わざるを得ない。構図といい、色合いといい、筆遣いといい、何一つ満足の行くものがない。しかし、当時一生懸命描いたことだけは確かだ。それだけ今は進歩したことになる。何事も進歩するのは嬉しい。私の属するコミュニティーの絵画同好会は、みな思い思いに描くことをモットーにしている。それぞれの流儀で試行錯誤を繰り返しながら描いている。本人は自覚していなくても、周りから見ると明らかにその人らしい個性が滲み出た作風の萌芽が見られる。

私もいつのまにか自分の好みスタイルができてきたようだ。モチーフとして好きなのは第一に風景画、それもそこに流れている詩情を描きたい。次に静物画、最後に人物画とくるが、人物画はまだほとんど描いたことがないので、その妙味が分かればまた変わるかも知れない。具象、抽象の中ではその中間から少し具象寄り、色彩感は余りに明るい色や暗い色は好まず、いささかくすんだ中間色が私の好みのようだ。どこかに範を求めるとすれば、やはり印象派のモネー、セザンヌ、ルノアールあたりだろう。この好みは油絵を始めてからというより昔から潜在的にもっていたもののようで、今、思うにはその傾向は早い時期から私のネクタイ選びに顕われていた気がする。

油絵を始めてから物の見方が少し変わったようだ。風景写真一つ撮るにしても、従来ならただきれいだという理由で撮っていたが、今は、その構図が絵になるかどうか、それを見極めてからシャッターを切っている。もっと積極的にいうなら、予め心に描いた光景がいくつも心にあって、それとの出会いをいつも心待ちにしているようなところが出てきた。

観察眼も念入りになった。物事に対するに先入観を以ってしてはならないといつも思いながらも、いざ絵を描く段になると、ついつい先入観が出てしまう。海空は青いもの、木々は緑のもの、太陽は赤いものと決め付け、絵の具をしぼってしまうがそうではない。よく見るとそれらは全て光に照らされ、七色の色の混合体だ。微妙に混合した色彩にしてはじめて生気を与えうると納得する。

大局観も出てきた。一つのキャンバスにモチーフを描くとき、キャンバス全体にみなぎる統一感(ユニティー)、均整感(バランス)調和感(ハーモニー)が欲しいが、いくつものの要素が絡んでくると、その互いの相対化ができず、ある物の形を不当に大きくしたり小さくしたり、色を無闇に濃くしたり薄くしたりしてしまう。細部にこだわりすぎて大局を見逃してしまう。大局観は審美眼に通じるものだとつくづく思う。

物事の深みも考えるようになった。自分から30~50センチ離れたところで絵を描き、3~5メートル離れたところで見てみると、絵は人を欺く。同じ絵でもかくも違うのだと驚く。また描いた直後に見た絵が翌日見ると大いに変わっている。水分を含んだ絵の具が翌日には乾いて白っぽくなるためだが、この計算も次第に出来るようになった。同じ絵も距離と時間経過でこのように深みが出るのだ。最近、描く絵は、真新しいキャンバスを使わず、ほとんど以前に描いた絵の上に上描きしているが、その下地が微妙に反映して味のある色が出てきた。

絵を描きながら来し方を思い、今後を考える。個性というのは潜在的にどこかに隠れていて自らも気が付かないぐらいだが、その一角がときとして顕われているのだと。私のネクタイのように。何事にも虚心坦懐に臨みたいが、先入観に犯されていることも然り、よく観察し、日時を置いて考えたり、距離を置いて考えれば大局観、ひいては審美眼も出てくるというものだ。また色んな経験が肥やしとなって、その上に深みや味わいのある人生が築かれてくるのだろう。

人間の経験は煎じ詰めれば全ては一つのキャンバス、脳の海馬に長期記憶となって収められている。それらが相互に情報として再編成され表出するとき、ハイブリッドな光を放つのだろう。

(2003.8)

私の耳  -言語と音楽と絵画―

想像上の世界旅行

今日は、今からしばらく皆さんとご一緒に想像上の世界旅行をしてみたい。まずはお隣の韓国から。ハングル語が聞こえ、民族音楽が聞こえてくる。何を言っているのかさっぱり言葉は分からないが、音楽の方は何か親しみを感じる。次はインド。癖のある英語だが、わずかに分かる。しかし聞こえてくる音楽は少しも楽しめない。中近東にきた。言葉は全然分からないし、単調な音楽も馴染めない。ウイーンまでやってくると言葉は分からないが、聞き覚えのあるクラシック音楽が聞こえてきて嬉しくなる。ドイツ、フランス、イタリー、スペインと順に旅するに及んで、分からないなりに言葉に親しみが湧く。民謡や歌曲、オペラなどで聴いたことがあるからだろう。イギリスからアメリカへ続けて周わる。同じ言葉とは言え、英語と米語が違うことにはっきり気づく。ジャズを聴くとその感を一層強くする。

日本に帰ってくる 

このようにくるっと回って日本に帰ってくると、平素、無意識で聞いている日本語が実にやさしいく爽やかである。テンポもリズムも肌に沁み込んでいる。歌も同じ。民謡や演歌が底において言葉と同じテンポとリズムで流れている。一方、日本で聴く日本人演奏家によるクラシック音楽がどこかヨーロッパで聞いたそれと違うように感じる。

言葉と音楽は密接な関係

これはあくまで想像上の旅で実際の旅感想ではない。だからどこまで実体を突いているか分からない。が、この想像旅で言いたいのは言葉と音楽、その両者の密接な関係である。

言葉にも音楽にもテンポ、リズムがあり、息使いがあり、発音、発声があり、音の高低、強弱がありで、言葉と音楽は共通の土台に立っている。日本の演歌、民謡はその意味で日本語に深く根差しているし、西洋のクラシック音楽(主として歌曲)は彼らの言葉に深く根差している。ジャズはやはり基本は米語に属しているのだろう。

 所詮「もどき」

このような前提に立つと日本生まれ、日本育ちの日本人が外国の音楽を奏でたり、聴いたりすることはいくら努力しても所詮‘もどき’であるかも知れない。声楽はいよいよそうであろうし、器楽も演奏者の聴力に依存する限り同じ難を免れないだろう。

濃墨の二本線と薄墨の二本線

あるピアノ調律師が『スタインウェイとニュースタインウェイ』(発行所:(株)エピック、1999年6月)の中で次のようにいっている。「日本の楽器の音を濃墨で書いた二本の線だとすると、欧米のそれは薄墨で書いた二本の線である。濃墨で引かれた二本の線のあいだにははっきりと白い空間が出来るのに対し、薄墨で引かれた二本の線のあいだには滲みが出来て白い空間が無い。だがもとの二本の線は形として残っている。濃墨で引いた線のように交じり合わないのが日本のピアノである。」と。

 音と音の間

ピアノのみならず欧米語には音と音の間に滲みのような音がある。それだけ音に膨らみがある。不慣れな外国人の名前を私がいくら繰り返しても、<違う、違う、そうではない>と指摘されるのはそんな滲みが聞えないし、聞こえないから発音もできないからだろう。

子音母音 対 子音子音

ちなみに日本語と英語・米語を比べてみると、日本語発音は母音ベース、英語・米語発音は子音ベースだから、リズム感が大きく違う。子音・母音が一対となった日本語は脳での処理が英語・米語のそれより緩慢でワンテンポ遅れる。それは盆踊りのような「あと拍子」の音楽には向くが、急発進する子音多用のジャズには向かない。出だしなどが微妙に遅れる。

パパパとパンパンパン

以前、ヴァイオリニストの漆原啓子氏から聞いた話でも同じような指摘があった。子音が連続したようにパパパと進めなければならないときにパンパンパンときては間延びしてしまう。

音の高低

また別の人によると、日本語の発音はドイツ語などに比べると低いため、ドイツ語は勿論のこと、ドイツ語と同じ高さを持つ楽器音は日本人の耳につかず、その部分が曖昧になるという。たとえばドイツ語で自分のことをイヒというが、厳密にいうとイヒではなく、微妙な音がその間に混じっている。

各言語の周波数

参考までに主要言語の周波数領域、つまり音の高低をヘルツ(Hz)で記すと下記の通りで、数字が大きいほど高く、小さいほど低くなる。

日本語  500~1,000H

ドイツ語 125~3,000

英語   2000~12,000

米語   1,000~3,000

スペイン 125~500 と1,500~3,000

フランス 125~250 と 800~1800

イタリア 2,000~4,000

ロシア語 125~12,000

フランスの音声学者、アルフレッド・トマティス氏(聴覚心理音声学国際協会会長)は、その著「人間はみな語学の天才である」で、米語と英語がかくも違うのは、北米大陸では1,000~2,000がよく通る土地の大気によるとある。またロシア語は広い帯域を持っているためロシア人は語学に優れているとある。その理屈からすると日本人が外国語に弱いのはその辺にも一因があるように思われる。

母国語の聴覚

人間はその母国語で聴覚を養ってきたから、音楽音の認知も発声もみなそれがベースになっている。さらには表現や思考形式、行動様式や運動能力までそれに深い影響を受けている。だから言語=聴覚=リズム感覚という図式ができ上がり、それから遁れることは至難である。

 私の英語ヒアリング

幸い、私はこの至難の道に挑戦し米語を中心に聴覚を磨いてきた。51歳から毎日3時間、母国語米語によるアメリカ放送を二十年間聞いてきた。そのため意味はいまだに不十分だが、音だけは第二言語に近い音感覚をもっている。それゆえその発音もリズムも、日本生まれ、日本育ちの、かつ年寄りにしては身についているように思う。

英語ヒアリングがクラシック音楽に通じる

この言語リズムが私のクラシック音楽鑑賞に大いに役立っているようである。しかも六十二歳の定年から自前の音楽ホールで内外一流音楽家によるクラシック音楽演奏(主として器楽音)を今までに400回ぐらい聞いてきたから私の耳は普通の日本人とは相当違うように今では出来上がっていると思われる。

内外演奏家の音の微妙な差異

生意気を言うようだが、そのお蔭で私の耳には外国人の演奏と日本人の演奏が微妙に違っているような気がする。

 音楽と絵画

ところで今、私は定年後始めた油絵に凝っている。しかしやればやるほど微妙な色出しが難しい。名画を見てよくこんな色が出せるものだと感心し、自分でもやってみようと努力するが、なかなかそれがそう簡単には行かない。

絵具

いっそ24色の絵の具を買ってと思い先生に相談すると今の12色でやりなさい。すべての色は赤、青、黄の三原色からできているのだからと薦めない。そういえばプリンターの色も三原色だけであるとあっさり納得する。

ピアノの鍵盤

ピアノも鍵盤の数は一定である。が、弾き手によってかくも音色が変化する。目で微妙な色の変化を識別するように耳で微妙な音の変化を識別しなければならない。音の場合の微妙さはどういうものか。

美人画の黒髪一本一本とコローやミレーの段階的色調

さきほどの濃墨と薄墨との違いからすると、それは日本の美人画に描かれた黒髪一本一本の整然とした繊細さではなく、ミレーやコローに見られる、茶色なら茶色の流れるような色調変化のデリカシーだろう。

池のリンゴと皿

さきほどの調律師の本にはこう書かれている。「何音かの音を同時に発音させた場合、欧米人の作ったものは、日本人の作ったものよりも音が流れていくように感じる。それはあたかも、左から右に書かれた楽譜をそのまま表わしたかのようだ。リンゴを池にほうり込んだ時、水しぶきはあまり立たず、リンゴは水面下深く沈み、やがてゆっくりと浮き上がってくるが、まさしくそのような音である。これとは反対に、日本人の作ったものは、池にお皿をほうり込んだ時のように水しぶきが左右に平たく飛び散るようなうすっぺらい音になってしまう。それは、三味線や琴を爪ではじいた時に出る、縦割で厚みのない淡白な音とどこか似ている。」と。

 ゴボッとパシャン

私には、このくだりが、欧米人の音はコボッだが、日本人の音はパシャンだと聞こえた。 コボッと下に向けた音は深く滲む感じがして、音に陰影や余韻を残すが、パシャンは撥ねて音に陰影を伴わない。そのとおりだと思った。

私の家では度々サロン・コンサートを催す。そこには海外から著名な音楽家もくれば、日本の中堅音楽家もくる。プロもくればアマもくる。それらの人たちの演奏を定年後肥やしてきた耳で聴いても上記のことは当てはまる気がする。

日本人ピアニストの腕の振りや手指の動かし方を見ている限り、欧米人のそれと変わらないが、音色は美人画の黒髪一本一本のように繊細だが音に膨らみがなく、棒グラフのように硬く単調に映ってしまうことが多い。

ピアノも欧米土壌のもの

思うにピアノという楽器ひとつとってみても、それは日本と違う欧米の土壌で長年にわたって培われた、かれらの感性の賜物である。この楽器のまわりに日本人がどうしても飛び越せられない溝があっても不思議はない。それぞれの国の文化、芸術、それにそれらの国の人々の感性は決して他国民によって完全にマスター、吸収されるものではない。マスターしたつもりでも、ただその文化を頭で理解しただけで、実際にはその文化芸術に限界まで近付いただけだろう。コップの水を他の容器に移しかえる時、完全に移しかえたつもりでも、いくらかの水滴が元のコップに残る。それと同じだと私は思っている。

(2016.05.08)

 

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この間古希を迎えたかと思うと、もうはや傘壽を迎えんとしている。70台はもう一週間を残すだけだ。古希の時に「古希通過展」と称する、生まれて初めての個展を開いたが、今、また傘壽という通過点を前にして個展こそしないが、至って元気に心身ともに充実した日を迎えられるのを心から喜んでいる。後日、傘壽の時にはどのような心境にいたかを知るために少し書き残しておきたい。

昨日は70歳台最後の油絵「ジャズシティー」を披露したが、今日は偶々、私の所属している芦屋五行歌会の十周年記念歌集が送られてきたので、その中に載せた私の五行歌観を掲げる。

「私にとって五行歌は日々の物思いショート、ショートです。季節、社会、芸術、老境など手当たり次第、投影しています。古希から傘壽まで3650日、こんなショート、ショートで胸を躍らせ頭を揺すって両脳を磨いてきました。もししていなければ今頃、かさかさの干からびた人生だったと思います。今は人の機微よりも滋味ある季節観察、ユーモアたっぷりの社会観察、音楽・絵画などの美的鑑賞のショート、ショートが好きになりました。」とし、代表作として

人はみな

自分という

唯一の作品を

制作している

偽作はない

と書いた。

さぁ、この唯一の作品の私はどんな具合に仕上がって行くのだろう。人生、20年毎に刻むと、大学を出て社会人になった頃が第1コーナー、会社で実務担当者から管理職になった頃が第2コーナー、サラリーマン生活に別れを告げて自由の身になった頃が第3コーナーそして今、いよいよ自分らしく生きる第4コーナーに達した。この一周を顧みるとき、おもしろい感慨に耽る。スタートを切り第1コーナーに達するまでは自然な自由人だった。それが宮仕えという40年間の奴隷生活となり第3コーナーでまた再び自由人として筋金入りで戻ってきた。奴隷というと言葉が強すぎるかも知れない。が、身も心も組織に、あるいは仕事に捧げてきた以上、やはり奴隷と言わざるを得ない。私の場合、後半の奴隷生活がとくにきつかったので早く自由の身になりたかった。その思いは今も続いている。

人によるがこの会社生活、あるいは仕事生活を一生現役と称して死ぬまで続ける人もいれば、そこまで行かなくても定年までまっしぐらに走って、走り終わると、ゴールに入った馬同様、そこから何をしていいのか分からない人を見かける。どうやら第3コーナーと第4コーナーを間違えたらしい。今やみな長生きである。かつての第4コーナーは今や第3コーナーである。まだ身体はピンピンしているのに精神的に張りがない、このような人を多く見かけるようになった。

私は、実はこの奴隷生活を送りながらも「自由」なオブラートのような薄い皮を被って40年間、自由側面生活を送ってきた。それが第3コーナーを回って中身が抜けると、その皮がまるでもぬけの殻のように残った。それは何か。遊びである。英語でいえばアローワンスになろうか。ぶらつき、散策といっていいかも知れない。オフィスで仕事をするときは100パーセント仕事に精を出しても通勤途上や自宅ではまったく自由である。

この時間こそ私のオブラートの皮だった。それを訝しく思う者も怪しく思う者もいなかった。横浜の港南台から新橋までの通勤電車の往復2時間は私の動く図書館として50歳からの10年間、仕事以外の本を読み耽った。また駅と自宅、駅とオフィス間を原則徒歩で10年間毎日1万歩は歩いた。これが今の健康の基になっているのは勿論、四季の表情、街の表情観察に非常に役立った。

50歳前、ニューヨークに単身赴任していた頃、アパートから事務所まで片道1時間、往復2時間を徒歩で通勤した。マンハッタンは碁盤の目のようになっている。毎日ルートを変えて歩くと毎日が新発見だった。とくに夜はニューヨークタイムズの「今晩の催し物案内」を頼りに色んなところに出没した。これが仕事面での発想にもつながった。帰国してからもこの癖が抜けず、いつもの新橋ルートでなく月に数回は赤坂から六本木、広尾を抜けて浜松町や田町への道を、本屋などを散策しながら歩いた。私の両脳が喜んだものだ。

どうして徒歩か、それにはわけがある。28歳の時、初めて海外勤務でロサンゼルスに行ったが、その時に見た車社会の陰である。勇ましく車でガレージまで来た老年男女が歩き始めたときのスリ足は無惨だった。帰国したらできるだけ車には乗らないと心に決めた。もう一つ、私が自由側面の皮を着たのは、米国人の仕事は仕事、家庭は家庭と割り切るドライさに比べ、何時果てるともなく残業に精を出す日本人のウエットさにやるせなさを感じたからである。

(2016.3.14)

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自分の思い出のためにもこの絵については少し述べておきたい。今日は3月13日、後9日すると80歳の誕生日を迎えることになる。つい先日の閏日、サロンを見学に来たお客さんが、「ここはクラシック音楽だけですか、ジャズなんかもできますか」と訊いてきた。「えぇ、できますよ。偶々クラシックばかりが続いているだけです」、「私は定年になるまであまりクラシックは聴かなかった。むしろジャズでした」と答えた。と同時にいわれて見るとこのホールはジャズの雰囲気に乏しいな、何かジャズを連想しそうな絵も欲しいな、落成してからもう5年目だしなと思い始めた。実はこけら落としは東日本大震災の翌日12日で、大混乱の中、東京から必死の思いで駆けつけてくれたヴァイオリニストの漆原啓子さんが初日を飾ってくれた。何か思いだすと直ぐにも着手しないと気が済まないので早速構想を練った。

かつて駐在したニューヨークの空、特に職場だったロックフェラービル44階から眺めた夜のマンハッタン、毎晩毎晩残業しながら眺めた夜景が頭にこびりついている。ジャズといえばブルーノートだが、それを描いても余りロマンチックではない。マンハッタンの夜景はきれいでロマンチック、セレネードにはピタリだが、必ずしもジャズの雰囲気とはいえない、さてどうするか、そこで思案していたら、特徴のあるクライスラービルの屋根がクラリネットに似ていると思い、またその横に見えるアメリカ銀行ビルの尖塔がフルートに見えてきた。すると不思議、明るい通りがサックスの胴体に見えてきた。ちょっと待てよ、ここが少し寂しい、いっそここに観覧車をホルンの形で置こうなどと考えているうちにだんだんと構想が固まってきた。やはりピアノが欲しいな、どこに置くか、左下にしよう。何となく「通り」のようにも見えるし、マンションのテラスのようにも見える。見えるか見えない程度に白でSteinwayと書いた。

描き始めたのは3月7日、それから、8日、10日、12日、そして今日13日が仕上げ、毎回1時間半から多くて2時間、それ以上は神経が集中できない。ざっと9時間の仕事だった。ここにきてやっと私の独自作風ができてきたようだ。次回からは80歳入りしてからの作品となる。定年後65歳で初めて始めた油絵もやっと新境地に入りはじめた。その意味でこの作品は70歳台最後の作品として記念になるだろう。