2016年2月18日 (木)
ローマカトリックとギリシャ正教の不仲についての一考察

今月13日、フランシスローマ法王とロシア正教のキリル・モスクワ総主教が1000年ぶりに話をしたと報道されました。

同じキリスト教でありながら、日本の平安中期から今日までトップ同士が逢わなかったということは、よほど互いに敬遠していた深いわけがあったと察せられます。

今までならこんな記事はすーと目を通せばそれきりだったと思いますが、偶々この報道の時にギリシャ正教とそのロシアへの進出について勉強していた矢先だったので非常に興味を持ちました。どうしてそんなに仲が悪かったのか、それを添付の一枚の図から私なりに話してみたいと思います。

この問題に取り組むには、ローマとビザンチン、その両側の言い分をよく聴く必要があると思いますし、また今現在の視点からでなく当時の人間、つまり古代人、中世人になったつもりで論じる必要があると思います。

16.02.04ビザンチン

図をご覧ください。タテは時間軸でBC3000年からAD1600年までを刻んでいます。ヨコは地域軸です。描きにくいので正確なものではありません、あくまで一つの概念として眺めてください。ただ同じ地中海文明を育んだローマとギリシャの間に一本、線を入れて西欧とオリエントの区別を浮き彫りにしました。ここが大変重要なところだと思います。

①     さてイエス・キリストの誕生から見て行きます。ご承知のとおり、イエスの生まれたのはこの図でいえばシリア・パレスチナです。その地には長い長い歴史の下地がありました。

②    イエスがローマ兵によって磔になってから数百年が経って、やっとキリスト教がローマでローマ帝国の国教となりますが、当時の西欧ローマはイタリア半島を除き文明度の低い森から出てきたゲルマンの蛮族に取り囲まれていました。

③    片や、オリエントの方はエジプト、メソポタミアはじめギリシャも都市文明が発達していました。かれらから見ると西欧は草深い田舎でギリシャ語も解せない蛮族に映っていました。現在の感覚からすればまさしく反対ですが、当時の古代人の目にはそう映っていました。

④    キリスト教は東方のエルサレムから西へ広がって行きますが、その伝道途上、文明度の高いギリシャ文明・文化の影響をもろに受けました。

⑤    キリスト教がローマ帝国に公認され、ほぼ同時にローマ帝国の首都はローマからコンスタチノーブルへ遷都され、やがてそれが東西ローマに分裂することになります。コンスタチノーブルは他の総主教区(エルサレム、アレキサンドリア、アンティオキナ)に近づきましたが、古いローマは他の総主教区との連帯性が薄れ、一人立ちしなければならなくなりました。

⑥    第1のローマに対し第2のローマが出来たわけで、いわば一眼レフが二眼レフになりました。

⑦    どの五総主教区も同等ながら第1のローマはやはり帝国の首都だっただけにいつまでもその首位の座を守ろうとしました。

⑧    が、取り囲み浸食してくる蛮族はそう易々とローマのいうことを聞きません、そこで蛮族に抗するために、ローマは絶対的な権威をかざし、おれは地上の王者ではない。それ以上だ。あの世の神の代理じゃと「法王権」なるものを考案し蛮族に突き付けました。

⑨    しかし、東はその法王権を許しませんでした。それは西の勝手な法理で本来のキリスト教はそのようなものではないとしました。これが仲たがいの大きな要因の一つです。

⑩    新聞では1054年にキリスト教が東西に分かれたとありますから、それまでは一つかと思いがちですが、実際はこのような歴史的背景があり、いわば犬猿の仲の関係はすでに5世紀ごろ始まっています。

⑪    ローマ側がこの法王権の力で聖俗分離を謳いゲルマン諸族にキリスト教を広めていきますが、それが板に付くのは800年、カール大帝が法王により戴冠されてからです。これからこの二眼レフの一つは大きく見開くことになります。

⑫    この頃、東は東からやってくるフン族はじめ幾多の遊牧民に泣かされますが、7世紀中頃のイスラム教の勢いに大いに苦しめられ細々と生きることになります。もうこの方の眼は急速に弱目になっていきました。

⑬    その勢いに追われた難民がイタリアに逃避しローマ法王についた者もいたぐらいで、東の影響を強く受けます。

⑭    その頃、ロシアはイスラム教に荒らされることもなく、聖キリルによるキリル文字での伝道でノブゴロドにギリシャ正教の芽が吹き始めます。それが後に第3のローマといわれるモスクワで繁栄するわけです。

⑮    一方、西欧ではイベリヤ半島がイスラム化され、その取戻しに十字軍が編成され何回かに分け、エルサレムに向かいますが、第4回の時にはエルサレムに向かうことより、途中ではじめて見たコンスタチノーブルの高度な文明にやっかみを感じこれを襲撃してしまいます。この恨みは真に大きく以後ずっと今日まで続いているわけです。これが第二の要因です。

⑯    イスラムが勢いを増したところへ兄弟分からのこの仕打ち、さすがの第2ローマももうボロボロ、15世紀にやってきたオスマントルコについにやられてしまい、二眼レフの一つの目は完全につぶれてしまいました。

⑰    皮肉なことにコンスタチノーブルを打ちのめしたローマがそのコンスタチノーブルの高度文明文化に影響されてダンテが14世紀半ばに「神曲」を書いて古代ギリシャの人間復活を謳うルネッサンスを始めると、西欧はこのオリエント発祥のギリシャ文明をあたかも自分たちの文明文化のルートであるかのように扱ったわけです。ギリシャにしてみれば、自分の半身をローマにもぎ取られたようなもので怒るのも道理です。

⑱    ロシアはその後荒れ狂うモンゴルタタールの来襲に根絶されそうになりますが、生き延び、15世紀中葉、イワン三世はビザンチン最後の皇帝の姪を妃とし、モスクワ大公国を正教会の総本山としてコンスタンチノーブルを継承しました。コンスタチノーブルでつぶれた眼は、その後モスクワで大きく見開きます。しかし、発展を標榜するカトリックと伝統を尊ぶ正教の信徒数の差は歴然としているようです。

今後、この兄弟がどこまで仲良くなれるか、仲良くなって悪魔のイスラム国をやっつけて欲しいものですが、そう簡単に行くとは私には思えません。(2016.2.18)