2016年3月14日 (月)
人生第4コーナーを回るに当って

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この間古希を迎えたかと思うと、もうはや傘壽を迎えんとしている。70台はもう一週間を残すだけだ。古希の時に「古希通過展」と称する、生まれて初めての個展を開いたが、今、また傘壽という通過点を前にして個展こそしないが、至って元気に心身ともに充実した日を迎えられるのを心から喜んでいる。後日、傘壽の時にはどのような心境にいたかを知るために少し書き残しておきたい。

昨日は70歳台最後の油絵「ジャズシティー」を披露したが、今日は偶々、私の所属している芦屋五行歌会の十周年記念歌集が送られてきたので、その中に載せた私の五行歌観を掲げる。

「私にとって五行歌は日々の物思いショート、ショートです。季節、社会、芸術、老境など手当たり次第、投影しています。古希から傘壽まで3650日、こんなショート、ショートで胸を躍らせ頭を揺すって両脳を磨いてきました。もししていなければ今頃、かさかさの干からびた人生だったと思います。今は人の機微よりも滋味ある季節観察、ユーモアたっぷりの社会観察、音楽・絵画などの美的鑑賞のショート、ショートが好きになりました。」とし、代表作として

人はみな

自分という

唯一の作品を

制作している

偽作はない

と書いた。

さぁ、この唯一の作品の私はどんな具合に仕上がって行くのだろう。人生、20年毎に刻むと、大学を出て社会人になった頃が第1コーナー、会社で実務担当者から管理職になった頃が第2コーナー、サラリーマン生活に別れを告げて自由の身になった頃が第3コーナーそして今、いよいよ自分らしく生きる第4コーナーに達した。この一周を顧みるとき、おもしろい感慨に耽る。スタートを切り第1コーナーに達するまでは自然な自由人だった。それが宮仕えという40年間の奴隷生活となり第3コーナーでまた再び自由人として筋金入りで戻ってきた。奴隷というと言葉が強すぎるかも知れない。が、身も心も組織に、あるいは仕事に捧げてきた以上、やはり奴隷と言わざるを得ない。私の場合、後半の奴隷生活がとくにきつかったので早く自由の身になりたかった。その思いは今も続いている。

人によるがこの会社生活、あるいは仕事生活を一生現役と称して死ぬまで続ける人もいれば、そこまで行かなくても定年までまっしぐらに走って、走り終わると、ゴールに入った馬同様、そこから何をしていいのか分からない人を見かける。どうやら第3コーナーと第4コーナーを間違えたらしい。今やみな長生きである。かつての第4コーナーは今や第3コーナーである。まだ身体はピンピンしているのに精神的に張りがない、このような人を多く見かけるようになった。

私は、実はこの奴隷生活を送りながらも「自由」なオブラートのような薄い皮を被って40年間、自由側面生活を送ってきた。それが第3コーナーを回って中身が抜けると、その皮がまるでもぬけの殻のように残った。それは何か。遊びである。英語でいえばアローワンスになろうか。ぶらつき、散策といっていいかも知れない。オフィスで仕事をするときは100パーセント仕事に精を出しても通勤途上や自宅ではまったく自由である。

この時間こそ私のオブラートの皮だった。それを訝しく思う者も怪しく思う者もいなかった。横浜の港南台から新橋までの通勤電車の往復2時間は私の動く図書館として50歳からの10年間、仕事以外の本を読み耽った。また駅と自宅、駅とオフィス間を原則徒歩で10年間毎日1万歩は歩いた。これが今の健康の基になっているのは勿論、四季の表情、街の表情観察に非常に役立った。

50歳前、ニューヨークに単身赴任していた頃、アパートから事務所まで片道1時間、往復2時間を徒歩で通勤した。マンハッタンは碁盤の目のようになっている。毎日ルートを変えて歩くと毎日が新発見だった。とくに夜はニューヨークタイムズの「今晩の催し物案内」を頼りに色んなところに出没した。これが仕事面での発想にもつながった。帰国してからもこの癖が抜けず、いつもの新橋ルートでなく月に数回は赤坂から六本木、広尾を抜けて浜松町や田町への道を、本屋などを散策しながら歩いた。私の両脳が喜んだものだ。

どうして徒歩か、それにはわけがある。28歳の時、初めて海外勤務でロサンゼルスに行ったが、その時に見た車社会の陰である。勇ましく車でガレージまで来た老年男女が歩き始めたときのスリ足は無惨だった。帰国したらできるだけ車には乗らないと心に決めた。もう一つ、私が自由側面の皮を着たのは、米国人の仕事は仕事、家庭は家庭と割り切るドライさに比べ、何時果てるともなく残業に精を出す日本人のウエットさにやるせなさを感じたからである。

(2016.3.14)