2015年8月26日 (水)
夏の夜のピアノ物語

例年になくうだるような暑さの中来客を迎え、音楽のことなど四方山話をしている間に、私が戦中の昭和17年に入学した高槻市の芥川国民学校(今の小学校)にはすでに黒いグランドピアノがあったと話すと、そんな戦前、戦中によくもまぁ、グランドピアノがあったとはまた豪勢なぁ、と妻も客も驚いた。あまりに驚くので、ひょっとして私の勘違いや思い込みかも知れないと小学校時代の記憶力のよい友達に確かめると、やはりグランドピアノだったという。当時は現在のようにピアノが一般化していた時代ではなく、だれも周囲にそんなものを持っている者はいなかったから、講堂にあるピアノを見ても不思議に思うより学校にはそのようなものがあるのが当たり前だと思っていた。しかし今、改めて考えてみると、現在でさえグランドピアノは貴重な存在だから、戦時にあるとは非常にたまげた話である。どうしてそのような高級でハイカラなものが、田舎の小学校にあったのかと考えれば考えるほど不思議になってきた。もしそのピアノが今日も現存しているとすればもう75年は上回っているだろうから骨董品としても相当な値打ちがあるだろう。

私の小学時代このピアノが使われたのは戦時中だから、ピアノ演奏などというより式典での、「君が代」、「海行かば」、「蛍の光」「仰げば尊し」などの伴奏用だった。今にして思えば講堂での式典に竪型でなくグランドがあるのは恰好がよかったといえる。しかし式典だからグランドとはいえども蓋を高く開けて本来の姿で弾く光景など見た覚えがない。それもそのはず、コンサートなどという洒落た言葉は当時一切ないし、また演奏家など一人もいなかった。それどころか当時は敵性言語の「ド・レ・ミ」はご法度だから「ハ・ホ・ト」で和音をそのグランドピアノを用いて習った。当時の小学校で一年生から唱歌に加えて和音などを習うのは随分進歩していた証左らしいが、そんなこと当時は全く知らず、ただ和服姿の女性の吉田先生が三つの鍵を同時に叩くその和音を「ハホト」とか「ハヘイ」で答える授業だった。

とにかくこのようなことを思い出すにつけ、にわかにこのグランドピアノの由来が気に成り出し調べる気になった。インターネットを駆使して色々調べている中に、齋藤紀子さんという御茶ノ水女子大の先生が今年3月に「ピアノの普及と大阪の都市形成 : 三木楽器の帳簿(1902-1940)の調査に基づいて」という論文を書かれているのが目に留まり、早速中身を紐解くことにした。その論文には、

「本研究は、このようにある種の汎用性をもつピアノについて、三木楽器が本社社屋に保管するピアノの納入に関する帳簿を研究対象とし、ピアノの普及状況と大阪の都市形成との関わりについて明らかにすることを目的に、納入地域と納入施設というピアノをめぐる二種類の場に焦点をあてて考察する。研究方法は、帳簿の分析である(分析データの最終更新は2014年8月31日に行った)。

とある。大雑把にいうと、三木楽器のピアノ販売台数は明治末頃から大正中頃にかけて年間1百台、それから昭和初期にかけて2,3百台、それからまたもとの1百台ベースに戻ったとある。

これらのピアノは、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本の各国で製造された。メーカーを特定できる1814台の中ではドイツのスタインウェイ(592台)やフォイリッヒFeurich(684台)、ローゼンクランツRosenkranz(271台)と日本楽器製造(現ヤマハ、100台)が多くみられる。全体の半数以上がアップライトピアノ(2585台)でグランドピアノは2割程度(841台)の普及率であった。自動ピアノも152台納入されている。

とある。

都道府県別に納入台数をみると、大阪府797、兵庫県194、京都府83、東京都78、福岡県61以下略で断然大阪府が多い。

納入先を特定できる事例の中では、その半数以上が個人あてに納入されており、それに次いで、教育機関への納入が目立つ。教育機関への納入は、小学校(318台)、女学校ならびに高等女学校(188台)、師範学校(58台)と唱歌や器楽が教育課程に組み込まれている学校種への納入事例が顕著にみられ、幼稚園(28台)や東京芸術大学の前身である東京音楽学校(28台)をはじめとするその他の教育機関3、中学校(11台)にも納入されていた。

らしい。

ピアノは、大阪府庁舎があり、三木楽器の所在地でもある大阪市に集中して納入された。その他の地域としては、大阪市に隣接する泉北地域(堺市、泉大津市、高石市、忠岡町の計45台)と摂津地域(高槻市、茨木市、吹田市、豊中市、池田市、箕面市の計40台)への納入が目立つ。

この中で

摂津地域についてみていく。まず、摂津地域の中で最も多くのピアノが納入された豊中市(1936年市政施行)は、箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の開通とともに形成された。豊中市に納入された14台のピアノの半数以上(10台)が個人のもとに納入され、残りのピアノは教育機関に届けられた。岡町駅、曽根駅、豊中駅周辺に納入されている。池田市(1939年市政施行)は、阪急グループの本拠地であり、同社が手がけた池田室町の住宅地は、日本で最初の鉄道会社による住宅地開発として位置づけられている。阪急グループの創業者であり、宝塚歌劇の創始者として知られる小林一三もこの地に居住し、三木楽器からピアノを購入している。豊中市と同様に箕面有馬電気軌道(現阪急電鉄)の開通とともに形成された箕面市(1956年市政施行)のピアノの納入事例はすべて個人のもとに届けられている。いわゆる高級住宅街として知られる桜井周辺に集中して納入されている。宝塚歌劇団や東宝劇団の上演活動に貢献した坪内士行もこの地に居住し、三木楽器からピアノを購入している。

摂津地域には、他に、茨木市(1948年市政施行)の教育機関に2台と個人消費者のもとに1台、吹田市(1940年市政施行)の教育機関と個人に1台ずつ、高槻市(1943年市政施行)の教育機関に2台のピアノが納入された。 以下略

この論文から高槻市には教育機関で2台のピアノが納入されたことを初めて知った。これらはおそらく芥川小学校と高槻小学校に納入されたものと推察し、齋藤紀子先生に確かめると、意外にも二つとも的外れだった。

先生によると一つは東上牧にある静徳高等女学校、もう一つは三箇牧小学校だという。

それらは今、広域化した高槻市に所在しているが、戦前・戦中はなかった。先生によると、芥川小学校分はひょっとしたら取次店経由納入されたものかも知れないと補足され、同時に三木楽器本社には今、「歴史保存史料室」があり田中晴美さんという方が管理されているという。

そこで同氏に問い合わせると、早速お調べ頂いた。

その結果、三木楽器から芥川小学校に昭和12年7月以前に納入されていることが判明した。帳簿コピーには「府下三島郡高槻町」の「芥川小学校」に「平新台」とある。このピアノはカワイ製だが、三木ピアノのブランドで販売されているものだった。カワイは昭和4年頃より製造開始したが、まだその知名度は低くすでに名の通った三木楽器から三木ピアノのブランド名で売られていたらしい。帳簿コピーには「竪」と「平」の字が見えるが、「平」がグランドであることが分かる。なるほど「平」は少ない。

芥川小学校の沿革によると、同校は1934年(昭和9年)5月に現在地に移転とあり、また1935年(昭和10年)4月に高等科を併設、三島郡芥川尋常高等小学校に改称とあるから、この移設頃に買い入れられたものではあるまいか。そうすると80年を越えていることになる。田中晴美氏から送られてきた昭和11年頃のカタログによると、この型のピアノは象牙の88鍵で1,150円とある。今日日、象牙の鍵のピアノなど思いも及ばないから、大変な値打ちものだろう。

それにしてもどうしてこのような高級ないわば家具が芥川小学校に入ったのだろう。

今年で190年の歴史を迎える三木楽器によると、洋風化が進みピアノの需要も年々旺盛になり1937年(昭和12年)には年間800台が売れたが、それ以後は戦雲とともに減ったという。それまでは作れば売れる状況で国産ピアノが急増したらしいが、輸入ピアノに比べると質的には相当劣っていたらしい。音楽家不在でメーカー中心に作った製品だったのかも知れない。

齋藤先生は論文の結論として三木楽器の所在地であり、最も多くのピアノが納入された大阪府内への納入をみていくと、大阪の経済・産業・流通の中枢を担う大阪市中央区とそこに隣接する天王寺区、西区、北区を中心に、泉北地域や摂津地域など20世紀初頭から住宅地や教育機関、医療機関と娯楽施設をはじめとする生活環境の整備と共に交通網が発達してきた阪急電鉄沿線や阪神電気鉄道、南海電鉄沿線地域にピアノが納入されていたことがわかる。このことから、三木楽器によってピアノが普及していく過程は、大阪の都市や郊外の形成過程とほぼ一致しているといえる。云々。

このような時代背景から芥川小学校も時代のバスに乗り遅れてはならじと思い、また高槻市で最も古い由緒ある小学校の面子にかけても竪型でなくグランドピアノを購入したのではないかと愚考する。このピアノがその後どうなったか、それを調べてみるのも価値があるかも知れない。

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