2016年5月8日 (日)
私の耳 -言語と音楽と絵画ー

私の耳  -言語と音楽と絵画―

想像上の世界旅行

今日は、今からしばらく皆さんとご一緒に想像上の世界旅行をしてみたい。まずはお隣の韓国から。ハングル語が聞こえ、民族音楽が聞こえてくる。何を言っているのかさっぱり言葉は分からないが、音楽の方は何か親しみを感じる。次はインド。癖のある英語だが、わずかに分かる。しかし聞こえてくる音楽は少しも楽しめない。中近東にきた。言葉は全然分からないし、単調な音楽も馴染めない。ウイーンまでやってくると言葉は分からないが、聞き覚えのあるクラシック音楽が聞こえてきて嬉しくなる。ドイツ、フランス、イタリー、スペインと順に旅するに及んで、分からないなりに言葉に親しみが湧く。民謡や歌曲、オペラなどで聴いたことがあるからだろう。イギリスからアメリカへ続けて周わる。同じ言葉とは言え、英語と米語が違うことにはっきり気づく。ジャズを聴くとその感を一層強くする。

日本に帰ってくる 

このようにくるっと回って日本に帰ってくると、平素、無意識で聞いている日本語が実にやさしいく爽やかである。テンポもリズムも肌に沁み込んでいる。歌も同じ。民謡や演歌が底において言葉と同じテンポとリズムで流れている。一方、日本で聴く日本人演奏家によるクラシック音楽がどこかヨーロッパで聞いたそれと違うように感じる。

言葉と音楽は密接な関係

これはあくまで想像上の旅で実際の旅感想ではない。だからどこまで実体を突いているか分からない。が、この想像旅で言いたいのは言葉と音楽、その両者の密接な関係である。

言葉にも音楽にもテンポ、リズムがあり、息使いがあり、発音、発声があり、音の高低、強弱がありで、言葉と音楽は共通の土台に立っている。日本の演歌、民謡はその意味で日本語に深く根差しているし、西洋のクラシック音楽(主として歌曲)は彼らの言葉に深く根差している。ジャズはやはり基本は米語に属しているのだろう。

 所詮「もどき」

このような前提に立つと日本生まれ、日本育ちの日本人が外国の音楽を奏でたり、聴いたりすることはいくら努力しても所詮‘もどき’であるかも知れない。声楽はいよいよそうであろうし、器楽も演奏者の聴力に依存する限り同じ難を免れないだろう。

濃墨の二本線と薄墨の二本線

あるピアノ調律師が『スタインウェイとニュースタインウェイ』(発行所:(株)エピック、1999年6月)の中で次のようにいっている。「日本の楽器の音を濃墨で書いた二本の線だとすると、欧米のそれは薄墨で書いた二本の線である。濃墨で引かれた二本の線のあいだにははっきりと白い空間が出来るのに対し、薄墨で引かれた二本の線のあいだには滲みが出来て白い空間が無い。だがもとの二本の線は形として残っている。濃墨で引いた線のように交じり合わないのが日本のピアノである。」と。

 音と音の間

ピアノのみならず欧米語には音と音の間に滲みのような音がある。それだけ音に膨らみがある。不慣れな外国人の名前を私がいくら繰り返しても、<違う、違う、そうではない>と指摘されるのはそんな滲みが聞えないし、聞こえないから発音もできないからだろう。

子音母音 対 子音子音

ちなみに日本語と英語・米語を比べてみると、日本語発音は母音ベース、英語・米語発音は子音ベースだから、リズム感が大きく違う。子音・母音が一対となった日本語は脳での処理が英語・米語のそれより緩慢でワンテンポ遅れる。それは盆踊りのような「あと拍子」の音楽には向くが、急発進する子音多用のジャズには向かない。出だしなどが微妙に遅れる。

パパパとパンパンパン

以前、ヴァイオリニストの漆原啓子氏から聞いた話でも同じような指摘があった。子音が連続したようにパパパと進めなければならないときにパンパンパンときては間延びしてしまう。

音の高低

また別の人によると、日本語の発音はドイツ語などに比べると低いため、ドイツ語は勿論のこと、ドイツ語と同じ高さを持つ楽器音は日本人の耳につかず、その部分が曖昧になるという。たとえばドイツ語で自分のことをイヒというが、厳密にいうとイヒではなく、微妙な音がその間に混じっている。

各言語の周波数

参考までに主要言語の周波数領域、つまり音の高低をヘルツ(Hz)で記すと下記の通りで、数字が大きいほど高く、小さいほど低くなる。

日本語  500~1,000H

ドイツ語 125~3,000

英語   2000~12,000

米語   1,000~3,000

スペイン 125~500 と1,500~3,000

フランス 125~250 と 800~1800

イタリア 2,000~4,000

ロシア語 125~12,000

フランスの音声学者、アルフレッド・トマティス氏(聴覚心理音声学国際協会会長)は、その著「人間はみな語学の天才である」で、米語と英語がかくも違うのは、北米大陸では1,000~2,000がよく通る土地の大気によるとある。またロシア語は広い帯域を持っているためロシア人は語学に優れているとある。その理屈からすると日本人が外国語に弱いのはその辺にも一因があるように思われる。

母国語の聴覚

人間はその母国語で聴覚を養ってきたから、音楽音の認知も発声もみなそれがベースになっている。さらには表現や思考形式、行動様式や運動能力までそれに深い影響を受けている。だから言語=聴覚=リズム感覚という図式ができ上がり、それから遁れることは至難である。

 私の英語ヒアリング

幸い、私はこの至難の道に挑戦し米語を中心に聴覚を磨いてきた。51歳から毎日3時間、母国語米語によるアメリカ放送を二十年間聞いてきた。そのため意味はいまだに不十分だが、音だけは第二言語に近い音感覚をもっている。それゆえその発音もリズムも、日本生まれ、日本育ちの、かつ年寄りにしては身についているように思う。

英語ヒアリングがクラシック音楽に通じる

この言語リズムが私のクラシック音楽鑑賞に大いに役立っているようである。しかも六十二歳の定年から自前の音楽ホールで内外一流音楽家によるクラシック音楽演奏(主として器楽音)を今までに400回ぐらい聞いてきたから私の耳は普通の日本人とは相当違うように今では出来上がっていると思われる。

内外演奏家の音の微妙な差異

生意気を言うようだが、そのお蔭で私の耳には外国人の演奏と日本人の演奏が微妙に違っているような気がする。

 音楽と絵画

ところで今、私は定年後始めた油絵に凝っている。しかしやればやるほど微妙な色出しが難しい。名画を見てよくこんな色が出せるものだと感心し、自分でもやってみようと努力するが、なかなかそれがそう簡単には行かない。

絵具

いっそ24色の絵の具を買ってと思い先生に相談すると今の12色でやりなさい。すべての色は赤、青、黄の三原色からできているのだからと薦めない。そういえばプリンターの色も三原色だけであるとあっさり納得する。

ピアノの鍵盤

ピアノも鍵盤の数は一定である。が、弾き手によってかくも音色が変化する。目で微妙な色の変化を識別するように耳で微妙な音の変化を識別しなければならない。音の場合の微妙さはどういうものか。

美人画の黒髪一本一本とコローやミレーの段階的色調

さきほどの濃墨と薄墨との違いからすると、それは日本の美人画に描かれた黒髪一本一本の整然とした繊細さではなく、ミレーやコローに見られる、茶色なら茶色の流れるような色調変化のデリカシーだろう。

池のリンゴと皿

さきほどの調律師の本にはこう書かれている。「何音かの音を同時に発音させた場合、欧米人の作ったものは、日本人の作ったものよりも音が流れていくように感じる。それはあたかも、左から右に書かれた楽譜をそのまま表わしたかのようだ。リンゴを池にほうり込んだ時、水しぶきはあまり立たず、リンゴは水面下深く沈み、やがてゆっくりと浮き上がってくるが、まさしくそのような音である。これとは反対に、日本人の作ったものは、池にお皿をほうり込んだ時のように水しぶきが左右に平たく飛び散るようなうすっぺらい音になってしまう。それは、三味線や琴を爪ではじいた時に出る、縦割で厚みのない淡白な音とどこか似ている。」と。

 ゴボッとパシャン

私には、このくだりが、欧米人の音はコボッだが、日本人の音はパシャンだと聞こえた。 コボッと下に向けた音は深く滲む感じがして、音に陰影や余韻を残すが、パシャンは撥ねて音に陰影を伴わない。そのとおりだと思った。

私の家では度々サロン・コンサートを催す。そこには海外から著名な音楽家もくれば、日本の中堅音楽家もくる。プロもくればアマもくる。それらの人たちの演奏を定年後肥やしてきた耳で聴いても上記のことは当てはまる気がする。

日本人ピアニストの腕の振りや手指の動かし方を見ている限り、欧米人のそれと変わらないが、音色は美人画の黒髪一本一本のように繊細だが音に膨らみがなく、棒グラフのように硬く単調に映ってしまうことが多い。

ピアノも欧米土壌のもの

思うにピアノという楽器ひとつとってみても、それは日本と違う欧米の土壌で長年にわたって培われた、かれらの感性の賜物である。この楽器のまわりに日本人がどうしても飛び越せられない溝があっても不思議はない。それぞれの国の文化、芸術、それにそれらの国の人々の感性は決して他国民によって完全にマスター、吸収されるものではない。マスターしたつもりでも、ただその文化を頭で理解しただけで、実際にはその文化芸術に限界まで近付いただけだろう。コップの水を他の容器に移しかえる時、完全に移しかえたつもりでも、いくらかの水滴が元のコップに残る。それと同じだと私は思っている。

(2016.05.08)