2016年5月9日 (月)
絵画の効用

絵の効用

 

独り油絵を描く。2000年暮れから習い始めた油絵、もう二年半以上になる。最初の頃に描いた絵を今見るとやはり拙劣と言わざるを得ない。構図といい、色合いといい、筆遣いといい、何一つ満足の行くものがない。しかし、当時一生懸命描いたことだけは確かだ。それだけ今は進歩したことになる。何事も進歩するのは嬉しい。私の属するコミュニティーの絵画同好会は、みな思い思いに描くことをモットーにしている。それぞれの流儀で試行錯誤を繰り返しながら描いている。本人は自覚していなくても、周りから見ると明らかにその人らしい個性が滲み出た作風の萌芽が見られる。

私もいつのまにか自分の好みスタイルができてきたようだ。モチーフとして好きなのは第一に風景画、それもそこに流れている詩情を描きたい。次に静物画、最後に人物画とくるが、人物画はまだほとんど描いたことがないので、その妙味が分かればまた変わるかも知れない。具象、抽象の中ではその中間から少し具象寄り、色彩感は余りに明るい色や暗い色は好まず、いささかくすんだ中間色が私の好みのようだ。どこかに範を求めるとすれば、やはり印象派のモネー、セザンヌ、ルノアールあたりだろう。この好みは油絵を始めてからというより昔から潜在的にもっていたもののようで、今、思うにはその傾向は早い時期から私のネクタイ選びに顕われていた気がする。

油絵を始めてから物の見方が少し変わったようだ。風景写真一つ撮るにしても、従来ならただきれいだという理由で撮っていたが、今は、その構図が絵になるかどうか、それを見極めてからシャッターを切っている。もっと積極的にいうなら、予め心に描いた光景がいくつも心にあって、それとの出会いをいつも心待ちにしているようなところが出てきた。

観察眼も念入りになった。物事に対するに先入観を以ってしてはならないといつも思いながらも、いざ絵を描く段になると、ついつい先入観が出てしまう。海空は青いもの、木々は緑のもの、太陽は赤いものと決め付け、絵の具をしぼってしまうがそうではない。よく見るとそれらは全て光に照らされ、七色の色の混合体だ。微妙に混合した色彩にしてはじめて生気を与えうると納得する。

大局観も出てきた。一つのキャンバスにモチーフを描くとき、キャンバス全体にみなぎる統一感(ユニティー)、均整感(バランス)調和感(ハーモニー)が欲しいが、いくつものの要素が絡んでくると、その互いの相対化ができず、ある物の形を不当に大きくしたり小さくしたり、色を無闇に濃くしたり薄くしたりしてしまう。細部にこだわりすぎて大局を見逃してしまう。大局観は審美眼に通じるものだとつくづく思う。

物事の深みも考えるようになった。自分から30~50センチ離れたところで絵を描き、3~5メートル離れたところで見てみると、絵は人を欺く。同じ絵でもかくも違うのだと驚く。また描いた直後に見た絵が翌日見ると大いに変わっている。水分を含んだ絵の具が翌日には乾いて白っぽくなるためだが、この計算も次第に出来るようになった。同じ絵も距離と時間経過でこのように深みが出るのだ。最近、描く絵は、真新しいキャンバスを使わず、ほとんど以前に描いた絵の上に上描きしているが、その下地が微妙に反映して味のある色が出てきた。

絵を描きながら来し方を思い、今後を考える。個性というのは潜在的にどこかに隠れていて自らも気が付かないぐらいだが、その一角がときとして顕われているのだと。私のネクタイのように。何事にも虚心坦懐に臨みたいが、先入観に犯されていることも然り、よく観察し、日時を置いて考えたり、距離を置いて考えれば大局観、ひいては審美眼も出てくるというものだ。また色んな経験が肥やしとなって、その上に深みや味わいのある人生が築かれてくるのだろう。

人間の経験は煎じ詰めれば全ては一つのキャンバス、脳の海馬に長期記憶となって収められている。それらが相互に情報として再編成され表出するとき、ハイブリッドな光を放つのだろう。

(2003.8)