2016年5月9日 (月)
英語ってね

英語ってね…

 

私がかつて海外に駐在したと他人にいうと、「それではもう英語はペラペラでしょうね」とか「映画など字幕を見なくても分かるのでしょうね。羨ましいなぁ」などと感想を漏らされ、「いや、その…それがうまくいかなくて、…」と一瞬返答に窮していると、「またまたご謙遜を」とくる。他人からそういわれて悪い気はしないから、「まぁね」と分かったふりをするのは簡単だが、事態はもう少し深刻である。残念ながら、映画などいくら海外にいても少しも分からないからである。同じ海外でもだれ一人日本人がいないようなところで四六時中、英米人に混ざって10年も生活したのなら別だが、日本をそのまま現地に持ち込んだような環境で現地の映画を見ても分かるはずがない。だから正直にいえば、「それがうまくいかなくて…」の方が正解だが、「分かる」といいたくなるのも人情である。10年も海外にいて少しも分からないというのではあまりにも自分が可哀想すぎる。だから「分かる」といいたい気持ちと「分からない」という実感をないまぜにした適当な返事でその場を濁すことになってしまう。よく知っている、たとえば会社の同僚、または得意先といつもの話題をいつものとおりやっている限りは問題のない口語英語も、映画となると同じようにいかないものである。

だから米語放送(AFN、アメリカンフォーシスネットワーク)の一つも聴いて耳を慣らせばそのうちに映画も字幕無しで楽しめるだろう始めた英語放送聴きだった、それがそう簡単に問屋が卸さなかった。実際、その英語放送を耳にした人なら分かるとおり、それは音の洪水以外の何ものでもない、こんなものを10年間も聴き続ける人の気が知れないと思われるのも当然で、それを長々とやってきた私は自分でも相当おめでたく出来上がっていると思う。どうして10年間もやってこられたのか。それは、最初はこれほど長くかかると思わなかったからということと、それでいて4,5年はかかると覚悟していたからである。海外に帯同した日本生まれのこどもが現地校に溶け込むのに4年はかかると聞くし、実際我が子を二年半現地校に行かせた経験からもその程度でものにならないことを知っていたから、4,5年はかかるとみていた。もし初めから10年もかかると知っていたらやらなかったかも知れないし、4,5年の覚悟がなければ途中で諦めていたと思う。51歳も回ってからのいわば修行だったが、それでも年齢を超えて聴覚的進歩が毎月確認できてきたので、これを重ねていけばいつか必ず聞ける日がくると確信し、途中で投げ出すこともなくここまでやってきた。

英語はやればやるほど難しいことが分かってくる。このAFNに出会う前は主にリーディングをやっていたが、英字新聞ならまだしも雑誌TIMEともなると、なかなかおいそれと読めなかった。それでも何とかしてそれをスラスラ読みたい、そして、できればAFNも聴きたい。そんなことを考えている時、「TIMEが読めればAFNも聴ける」を何かで読み、なるほど「読んで分からないもの、聴いても分からないか!この貧弱な読解力を解消しないで、AFNを聴くのは厚かまし過ぎるか」と、TIME読みに精を出したが、目立った効果はなかった。当時から「聴く」のは「読む」より難しいことが分かっていたから、読む力がつけば聴く力も自ずとつくと単純に考えていた。しかし今考えるとそれは間違い、かりに読む力がついてもそれが聴く力につながったとは思えない。読む力がどんなに速くてもオンライン的に意味処理しなければならない聴く力にははるかに及ばない。オンライン的に意味処理しなければならない聞く力はオフライン的に意味処理をしてもよい読む力に比べ余程強烈である。「大は小を兼ねる」と同じで「速は遅を兼ねる」だから、実は前提が逆で、「AFNが聞ければTIME」も読める」でなければならない。実際に私の経験ではAFNはまだ聴き取れなくても、TIMEは目立ってよく読めるようになった。これだけでもAFNリスニングをやった甲斐があったというものだった。これを裏返していうと「聞けもしないで、よく読めること」となる。やはり読む場合も聴く場合と同じくオンライン的に味わってはじめて本物といえそうである。何もこむずかしく考える必要はない。日本語だってそうだ。テレビの解説が聞けなくて新聞の解説が読めるというのは少し不自然である。

翻って考えてみると、AFNなど本来私に聞けるようなものではない。AFNは他国人の母語だからで、われわれの日本語もそう易々と他国の人を寄せ付けないように、英米人の英語もわれわれ日本人をそう易々に寄せ付けない。母語は本来そのコミュニティー内で使われる言葉であって、その一員として生まれてはじめて身に着くもので、コミュニティー以外の者が近付こうとしてもそう簡単にいかないものである。テレビにラジオ、映画などのマス・メディアも基本的に母国人を対象にした母語世界のものであり、外国人の私に分かるはずのないものだが、そうとも知らずにやってきた。理屈で考えればそう易々とできるはずのないものを、知らぬが仏でやってきたともいえる。実際、今だからこそ覚めた言い方をしているが、最初は読む力がつけば聞けるものと勘違いし、フランス語でなく英語である限り聴けると錯覚していたようである。しかし、そう勘違いしたからこそここまでやってこられたので、他人の母語など聞けるわけがないと頭から判断していたら、やろうとすらしなかったかも知れない。

このような私の実体験からすると、巷に溢れる「楽に」「楽しく」「短い期間で」達成できる英会話など信じられず、その安直さを嘆かずにおられない。誇大広告で無節操というものである。

一つだけ例を挙げると、もう昔の出版物に『放送英語』という大学教授が書いた本がある。それはニュース英語聴解のための学習法を述べたもので、次のようにある。

テープから流れ出るアナウンサーの英語をそのまま声を出して、最後まで追いかけていく方法、つまりアナウンサーの声に密着し、「重ね読み」していく方法です。そのためには、英語の音声に全神経を集中し、一瞬のためらいも許されません。初めのうちは速い英語の流れ(Stream of Speech)に取り残され、follow upすることは困難でしょう。しかし、誰でも毎日二十分ぐらい、一週間も継続的に実行すれば、口ごもることなく、スラスラと英語が口をついてでるようになります。…

私はこれらの宣伝が語学を本当に愛し熱心に真摯にやろうとする人たちを欺いたり、意気消沈させないことを祈らずにはおられない。語学下手で定評のある日本人、アジアの中でも最悪の部類に入るといわれるわれわれ日本人はもっと語学に対し謙虚な根性を据えて取り組むべきでないだろうか。

私は自分の英語体験記である「私の英語遍歴」という本を自費出版した。(1997年4月、ご希望者はこのホームページでお申込みください)それを手にした友人の英語研究者がいうに、「この本は売れない。良書過ぎる。本当のことを書いたのではダメ、簡単にできるように書かなければ売れないから出版社が嫌がる。書き直しを迫ってくる」というのである。この本もおそらく大学教授がこのように書いたとも思われない。おそらく出版社が大水増しをやらかしたのではないかと思っている。

(2005.3.22)