2017年7月28日 (金)
英語学習について

昨日の毎日新聞の夕刊(2017.7.27)社会欄に、<「小学英語、役立つ」中一の半数のみ>、と、小学英語が役立っていない現状を訴える記事があった。

小学英語では「聞く」「話す」に重点を置くが、中学英語では依然として「文法」や「熟語の暗記」に重点が置かれ、そこにギャップがあるからだとしている。

文科省が小学校から大学まで一貫した英語学習の充実を目指す中、現状では学習のつながりができていないというのだ。

もうこのような記事を読むと本当にうんざりする。昔から毎回毎回同じ繰り言ばかり繰返していて何の進歩もない。それは少しも言語の発達と脳の発達の関係が論じられていないからだ。

聴覚心理音声学者のアルフレッド・トマティス博士が、その著、「人間はみな語学の天才である」(アルク社、1993年)の序章で次のようにいっている。

「外国語を教えるべき専門家たちの聴覚のメカニズムに対する関心の低さにはいつも驚かされる。-中略―聴覚器官のことを棚上げにしたまま、言語学習について論じることなどできるだろうか」と。私は大いに同意する。

この本で、「母語以外の言語を学習すると、神経組織や筋肉組織が次第にその新しい言語に特有の形をとりはじめる」と説く。「耳は、母語、外国語を問わず、言語の学習においてもっとも重要な役割をはたす。言語学習に関心をもつ人は、だれもこのことを避けて通ることはできない。言語を習得するということは、-中略―母語であれ外国語であれ、そのメカニズムは結局のところ同じである。言語の習得が、耳を通して行われることには疑問の余地はない。たとえ文章や画像などの助けを借りるにしても、耳による習得が本質であり、第一義である。言語は聞くこと、それも正しく聞くことによって学習されるのである。」という。

さらに続けて、

「聴覚器官も明らかに、練習を重ねることによって最終的に適応していく。しかし、そこまで到達するのにあまりにも時間がかかるので、その前にあきらめてしまうことが多いのだ。ただし、耳がきわめて柔軟であれば、水槽に浸るのにそれほど長い時間をかける必要はない。柔軟な耳はたちまちのうちに新しい言語の周波数に順応し、次々と現われる新しい「音の水槽」に適応していく」と。

「そして、この新しいアプローチは、胎内にいる時期を含めて幼児から九十歳のお年寄りにまで、だれにでも、母語以外の言語を習得する可能性が開かれていることについては、もはや反論、あるいは議論の余地すらない。四十歳を過ぎたらバイリンガルになることは不可能だ、などと昔からいわれてきたが、そのような説は根拠のないものである。」

その通りである。私自身が、五十一歳から米国の国内放送を毎日、数時間、三十年間聞き続けてこのトマティス博士説を実証した。

私の最初の十年間のヒアリング経験を、自費出版した「私の英語遍歴」で世に問うたが、八十一歳になった今、私の聴覚に確たる新たな進歩が生まれ始めた。

簡単に記すと次のとおりである。

この新たな聴覚とは何か、今までの聴覚とどこがどう違うのか、それには意味の「意」の字が示唆的である。この字は「音」の下に「心」と書く。上の「音」に意識が集中している間は下の「心」が見えない。しかし上の「音」が無意識に聞き取れてくると、下の「心」が見え始める。意識がそこにだけ働くからだ。ここでいう「心」とはスピーチの意味である。

従来の雑「音」に阻まれて見えなかった「意味」が「音」の解消により八十一歳から見えてきたのだ。長い長い過去三十年に亘る成果がやっと今見え始めてきた。後何年掛るか分からないが、次第に意味がはっきりしてくるだろうことだけは確かである。まさに私のライフワークである。

譬えてみればそれは画像処理に似ている。画像全体が攪乱的な音素に占められ、ただぼうっとした灰色画面時代から、徐々に何らかの形を結び、ぼやっとながら無形体の何かが見えてきた。まだまだピンボケだが、いずれ焦点が合った、はっきりした像を描くに違いない。それが物凄く楽しみである。くわしくその過程をいずれ書くつもりでいる。

八十一歳ともなると聴覚が弱まり、母語の日本語ですら聞き取りにくくなってきた。テレビも音量を上げないとニュースさえ聴き取りにくいし、家族と話していても何回も聞き直すことが多くなった。

しかしそれでもアメリカの国内放送がこれから先、意味として情報として聴き取れるのは物凄く楽しみなことである。

三十年前と違いITが発達した今日、十歳から二十歳に掛けて十年間毎日一時間、生の英語を聞き続けたら必ずや英語がものになることはこの年寄りが請け負う。ただし途中で決して諦めてはならない。諦めなければ若い聴覚神経は「音の水槽」に必ずや適応していくだろう。

(2017.7.28)