2015年8月19日 (水)
2才半の孫息子と79才半の爺が言語生活で競争

五人目の孫(男)がちょうど2歳半になった。離れて住む孫だが、今はフェイスタイムがあるのでいつでも好きなときに遊んでいる孫の姿を画面を通じて見られる。

このフェイスタイムは幼児の言語発達に関心を持つ私には格好の道具である。だれにも邪魔されずに孫の言語生活のはしりを観察できるからである。

この間までほとんどしゃべらなかった孫がここに来て急に多くしゃべるようになった。幼児の頭の中が覗けそうで嬉しくなる。母親の言葉を中心に父親や兄の言葉も今では相当聞けるようになったように思われる。過去2年間、懸命に人が発する発音のクセに慣れ、単語の意味を解し、文まで解ってきた。自らは無言でも頭の中には相当多くの言葉にまつわるデータが蓄積されているに違いない。それが2歳半になった今、自らの口からその断片を迸るようになったということだろう。この勢いは今後急テンポで高まるものと思われる。

話変わるが、私は51歳からAFN(アメリカの放送)を聴き始め今では1万時間以上聴いている。その甲斐あって今では相当進歩したが、まだ文を解するまでには至っていない。その過程を定年時に自費出版した「私の英語遍歴」にまとめたが、そのくだりの一部をここに引用してみる。

p58 「過去九年以上にわたって聞き続け、トータル八千時間を越えたFEN(注:今のAFN)は私にとって音声英語の華です。それは、紙や画面に固定した不動の活字英語でなく、声となって流れきては流れ去る、はかない束の間の生命の英語です。

活字英語が固定物とするなら、音声英語は流動体です。じっと紙に固定して動かない英活字を自分たちの目を動かして追ってきたわれわれには、いつしか英語は固定して動かず、静的なものに映っています。しかし、音声英語に接して見ると事情は全く逆でした。じっと澄まして動かない耳に、得体の知れない濁流音がどくどくと流れ込み、竿をさす間もなく、あっとい間に流れ去ってしまいます。英語を魚に譬えますと、活字英語は陸揚げされて静かになった魚、音声英語は水中で動き回っている魚のようです。今、海から引き揚げられたばかりの生きのよい、網一杯に掛かった魚がTIMEとするなら、大海を回遊している魚の群はFENでしょう。」

p96「私にも幼児の頭の中は覗けませんが、生まれるなり即座に母親の音声を理解することは無理だと思います。なるほど脳は柔らかくスポンジのようでも、母親が話す言葉を、他の雑音と聞き分け、語に分節し、意味を取り、構文分析し、文全体の意味を掴むのは簡単どころか、幼児にとっては極めて難しい作業だと思います。喋る場合の初語と同様、聞き言葉もいろいろな予備段階があり、それを順序よくこなして初めて可能になるものでしょう。しかし、幼児はその辺を語りませんし、大人は幼児体験を忘れ、その辺は極めてスムースにいったと勘違いしていますから、言葉に対する大きな錯覚を生んでいます。」

p97「意味の(意)の字が非常に示唆的です。この字は、音の下に心と書きます。そして、この(音)は(言)という字の下の口に一本、線を入れて声の節回しを表わしています。つまり、口から出た音に節を付け、それで音声を作り、その音声とともに思いを発すると理解できます。母親は幼児に向かい自分の思いを音声で伝えますが、果たして幼児にその心が届くでしょうか。上の音に邪魔されて下の心はなかなか見え難いのではないか。私たち大人には、すでに音と心は渾然一体となっていて区別がつかず、意識は常に下の心にあるから上の音は分からないが、幼児にはまだ渾然一体となっておらず、上と下とは別々のままだろうと思います。」

私は今、AFN英語について、上の音はもう85パーセントぐらいは克服したが、下の心はまだ30パーセントぐらいだろうと思う。30パーセントと判定するのは、まだ上の音の部分に15パーセントの問題を残しているため下の心に響かないのと、トピックス自体が外国に関することが多く縁遠いため、心に響かないためと思われる。

2歳半の孫息子と79歳半の爺が、これから新たな言語生活に挑戦して行くのである。孫の成長、発達を見ながら自分の糧としたい。