2017年7月13日 (木)
私と英語

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私と英語

 

私に一つだけ自慢話が許されるなら、それは英語の学習だろう。それとの付き合いはもう80年にもなる。まだこれからも続くだろう。

昭和11年生まれの私が物心のついた三、四歳ごろ、世の中は戦雲急を告げ出し、日本男児たるもの、西洋文明に汚されてはならじと横文字(=アルファベット)使用は一切禁止されていた。学校の音楽の授業でも横文字のドミソはご法度、ハホトで習ったぐらいだから、町で横文字を見かけることは一切なかった。

そんな時代に、父のアルバムを見ると写真とともに変な字の横長い文があった。それが英語だった。昭和のはじめ父が高商(今の大学)の夏休みにシアトルに一か月ばかり旅した時の思い出の写真と文だった。

この印象がよほど強烈だったのだろう。爾来、横文字が脳裏から離れなくなってしまった。またある時、納屋を覗いたら叔父が残したアルファベットの小さな判子が見つかりそれらを並べて遊んだ。もしそんな光景が見つかったらどんな目にあっていただろう。

それが4,5年ででんぐり返った。戦争に敗けたのである。そこで一夜にして横文字が踊り出た。私の小学4年生の時だ。横文字などかつて目にしたことのない子どもとそれをすでに知っていても使えなかった子どもの差は大きかった。戦後、英語の嫌いな子どもは沢山いたが、英語の好きな子どもは稀だったのは当然かも知れない。

こうして幼少の頃から横文字(=英語)に強く惹かれた私は学生時代を通じて英語が好きだったし、勉強もよくした。お蔭で、入試で難しかった英語も突破して商社に就職した。入社後は40歳になるまでにロサンゼルスやシドニーに通算7年駐在し、英語のできる強みと有難味をある程度味わった。読み書きは日常業務で使わざるを得ないから自然と慣れ親しんだが、こと話す、聞くに関しては日本人駐在員が多い上、家族とは当然日本語で話すから、英語を用いる局面は少なく、上達したという実感はなかった。海外生活をしたといっても現地人に交じって一人で暮らすわけではないから、ずっと日本で暮らすのと大差なかった。その意味でここまでは特筆するようなことは何もない。

 

英語に対する姿勢が変わったのは47歳で赴任したニューヨ-ク駐在以後である。

駐在直後に会社の命令でハーバード・ビジネス・スクールの夏期セミナーに二週間参加した。缶詰になって毎日百数十ページの英文を読まされたのはまだしも、128人の社会人学生中、唯一の日本人学生である私にとって、普通にしゃべる教授や学生の米語が少しも解らない、手も足も出ない悔しさに泣いた。この時ほど惨めなことはなかった。

 

この時に思った。一体、今までのオレの英語学習は何だったのか、およそ使い物にならないではないか、英語に関してはかなり自信のあったオレではないか、これでいいのか、これからどうする、だった。

 

そこで帰国後51歳からFEN(今のAFN)放送の聴き取りを始めた。今はこの放送もネットを通じていつ何時でも聞けるが、30年前はそうはいかなかった。FEN一局だけが聞けるカードラジオを買ってきたり、ウオークマンが出来てからは留守中に録音した放送を聞いたりと一筋縄ではいかなかったが、62歳の定年になるまで毎日3時間、10年間に亘って聞き続けた。そして定年後も不定期ながら20年間聴き続けた。

 

その甲斐あって、この81歳の誕生日頃から聴感覚が大きく変化してきた。 iPadを耳に当てるとアメリカの国内放送が自然と理解でき「始めてきた」のである。「」を付けたところが重要で、すべてが解るわけではないが、今は加速度をもってきているから、あと2年もすれば大半が解りそうな予感がする。

以前、定年退職時(1997年6月)に自費出版した「私の英語遍歴」でその経過体験をまとめたが、それからまた20年が経った。

何事も5,000時間を掛ければ「ひとかど」になれると将棋の名人、米長邦雄が言ったが、その倍の10,000時間を掛ければ、50歳からでも何事もモノになる証しができたと考えている。0.0001も1万掛ければ1になる。それを0.00と考えるからモノにならない。人間の脳は生まれ落ちた時は柔らかくスポンジのようでも50歳も回れば石のように硬くなる。しかし、それを毎日毎日3時間同じ音で叩いて叩いて柔らかくすればその部分は加工できるようになる。

これを実証したことが私の自慢である。

(2017.7.12)