2019年6月29日 (土)
ショパンとジョルジュ・サンド相性物語
 

 

はじめに 今夏もノアンに3回目のピアノセミナーで行くことになりました。ピアニストの皆さんは今回もピアノの勉強に余念がないことと思います。一方、音楽家でない私は、この三回目の旅を今まで以上にショパンとサンドの間柄を知る探検の旅にしようと思っています。2年前の夏にも旅に先がけて、二人のことを「旅のしおり」でまとめましたが、あれはあくまで表面的でした。今回はもっと突っ込んでみたいと思います。

主に参考にしたのは「世界大音楽全集9(河出書房1968年版)ショパン(フランツ・リスト著:亀山健吉/浜名政晃訳)」及び「ジョルジュ・サンドの世界 生誕二百年記念出版 日本ジョルジュ・サンド研究会(第三書房2003年6月)」です。リストはショパンの死後一か月にして彼の伝記を書こうとし現に書きました。それは実に生々しく今回の大きな参考になりました。

二人のケミストリー ショパンとサンドが磁石のように互いに引き合ったり、撥ね合ったりした力は何か、これが今回の私の大きなテーマです。人には相性があります。相性を英語でケミストリー(化学)といいますが、分子同士がうまく化合する関係もあれば一向に馴染まない関係もあります。ショパンとサンドの化合状態はどうだったのでしょうか。似た者同士の面もあれば全く似ていない面もあったと思われます。

18世紀前半のヨーロッパ ご存知の通り、ジョルジュ・サンドは1804年フランス生まれ、フレデリック・ショパンはポーランド1810年生まれで、サンドの方が6歳年上です。フランスとポーランドは国は違いますが当時の社会情勢としてはヨーロッパとして共通していました。1830年7月、パリで「七月革命」が起きました。1789年のフランス革命で王侯貴族が打倒されましたが、その反動で王政が復活してきました。これを民衆が自由を叫んで再び倒そうとしたのです。ドラクロワ描く「民衆を導く自由の女神」はその時の情景です。この時、サンドは26歳、故郷のノアンにいました。そこに近いラ・シャートルの町は自由の報に熱狂と興奮に包まれました。しかし、その革命は失敗に終わりました。落胆したサンドが社会問題に深く関心を示したのはこのときです。一方、ショパンはこの時、20歳、祖国ポーランドが独立運動を起こしましたが、ロシアに鎮圧されて深い悲しみに打ちしおれ、強い怒りをおぼえてエチュード「革命」を作曲しました。旅先のことでした。このようにある意味で境遇をともにしたショパンとサンドですが、彼らの生立ちと幼少のころはどうだったのでしょうか。その違いはどこにあったのでしょうか。

二人の誕生 先に生まれたサンドからみていきましょう。

サンドの幼時 ジョルジュ・サンドは幼少の頃名前をオーロール・デュパンといいました。オーロールは1804年7月1日、パリで生まれました。父は名門貴族の血を引く士官、母はその上官の情婦で小鳥商人の娘でした。生まれた数か月後から一家はフランス中部ベリー地方にあるノアンの父方の祖母の館に住むことになりました。この祖母はポーランド王家の血を引く誉れ高い貴族とはいうものの、フランス陸軍元帥ドゥ・サックス伯爵と清涼飲料水商人の娘との間に生まれた私生児でした。オーロールが4歳の時、不幸なことに父が落馬事故で亡くなりますと祖母は母との間でオーロールの教育をめぐって葛藤を表面化します。そこで母はパリに去り、祖母は幼い孫娘に貴族教育を受けさせました。祖母自ら音楽を教え、文学の手ほどきもしました。丈夫に育ったオーロールではありましたが、父母のいないさびしさから村の農民の子供たちといっしょになって野原を駆け巡ってさびしさをまぎらわしました。この時の幼児体験が後のサンドの糧になりました。サンドは物心がつくにしたがい母を慕って反抗的になり、手を焼いた祖母はついに13歳になった孫娘をパリの寄宿学校に入れました。

ショパンの幼時 次にフレデリック・ショパンの方を見てみましょう。ショパンは1810年3月1日、(2月22日説もある)ポーランドのワルシャワから西へ54キロにあるゼラゾヴァ・ヴォラという小さな村で生まれました。写真で見る限りこの地はノアンやラ・シャートル近辺とよく似ています。ショパンは生後8か月で一家とともに首都ワルシャワに移りワルシャワで育ちました。ショパンの父、ニコラはフランス、ロレーヌ地方生れのフランス人で、その父、つまりフレデリックの祖父は車大工だったといいます。そのような庶民出のニコラが16歳の時、ポーランドに渡り、はじめタバコ会社で働きますが、工場が封鎖されたため辞め、ポーランドに帰化して、ワルシャワ辺り一帯の領主だったスカルベック伯爵の宮殿内に住み、ポーランド貴族や上流階級の人々に公用語のフランス語を教えていました。この宮殿でニコラと知りあって結婚したのがショパンの母、ユスティナ・クシジャノフスカでした。彼女はスカルペック伯爵の遠縁に当たる高貴な女性で伯爵家の侍女をしていました。

この二人の間に生まれたのがフレデリック・ショパンです。彼には三人の姉妹がいて、彼は四子のうちの第二子に生まれたただ一人の男です。フレデリックという名はスカルベック伯爵の名前にあやかってつけたもののようです。信仰心の篤い敬虔な一家で母も姉もピアノをよくし、フレデリックは母の演奏するポーランド民謡を聞いて幼時を過ごしたようです。このポーランド民謡の響きがいつまでもフレデリックの心に残りました。問題はフレデリックが病弱だったことで、これが一家の一番大きな心配事でした。

幼時における二人の共通性と対照性   二人の幼時を見ただけでも二人の共通性と対照性がみてとれておもしろいですね。

親のどちらかが貴族の血を引き、他方は庶民である、この点が共通しています。どうもこの時代は私生児が多い。妾を持つのは男の甲斐性というものだったのでしょうか。サンドは幼時をノアンの田舎で育ち、ショパンはワルシャワの都会で過ごした。この点では対照的です。サンドの育った館もショパンが育った宮殿も立派で環境的には共通性があった。サンドが両親のいない寂しさ悲しみの中で育ったのに対し、ショパンは一家の愛情を受け、貴公子のように育った。これは対照的です。サンドが逞しく元気に育ったのに対し、ショパンは虚弱で病弱、いつも身に不安がつきまとった。これも対照的です。

人生のスタートからして違いますね。サンドが男性的であるのに対しショパンは女性的ですね。

二人の少年少女期はどうだったのでしょうか。

サンドの少女期  祖母にパリに送られ入った寄宿学校はイギリス系の修道院付属寄宿学校でした。二年間ここでみっちり礼儀作法や英語を仕込まれました。新興国イギリスは早くも産業革命を成し遂げた経済先進国で、古く封建的なフランスとは違いました。イギリスにはまた自然に包まれた原始的な面が残っていて、人為的で技巧を凝らしたところが多いフランスとは違いました。イギリスは衣食住も簡素なら、生活態度も都会の社交生活よりも狩猟を好む野性的な面が濃厚でした。多感で不安定な少女時代をイギリス人の尼僧や友人と穏やかに暮らしたサンドはイギリスのこんな面に魅力を感じたようです。パリの都会よりもベリー地方の田舎を愛したサンドらしいところです。寄宿学校ではシェークスピアの“ハムレット”や“ロミオとジュリエット”などを原文で未読し、将来、物書きになろうと夢みたようです。

ショパンの少年期 一方、ショパンはどうだったでしょうか。

無性の音楽好き 虚弱で病弱、華奢に育ったショパンはいつも身の不安にかられていました。しかし物心がついた頃からポーランド民謡が身体に沁み込み、無性に音楽にとりつかれた子どもになりました。普通の子どもなら文字で綴るようなことを音で表現しようとする一風変わった子どもでした。人の声も犬猫の声も全部音楽に聞こえたようです。彼の家は宮殿の一角にあり父親がフランス語を教えていた関係で家の中にはフランス的雰囲気が漂い、有名な芸術家や学者が毎夜のように客間にたむろしていました。これが子どものショパンに目に見えない影響を与えたはずです。

ピアノの勉強 ショパンがピアノの勉強をし出したのは幼時からで母や姉について習い始めました。現存する最初の作品『ポロネーズ』は7歳の時の作品です。また8歳の時に初めてピアノの公開演奏を行いました。9歳の時にはバッハに私淑したジブニーについて古典音楽の様式をしっかりと勉強しました。彼はワルシャワの公立中学に入学しました。しかしショパンの家計は貧しく苦しい状態でした。そこで彼の才能を見抜き、経済的援助を与えたのがアントワーヌ・ラジヴィーウ公爵でした。公爵はショパンに完全な音楽教育を受けさせました。この旧ラジヴィーウ公爵の宮殿は現在、大統領官邸として使われているそうです。

在学中、知り合った伯爵家の友人の母、ルイズ・チェトヴェルティンスキー公爵公妃がショパンの中に詩人を発見しました。お褒めに預かってショパンは大喜びでした。
その後、ワルシャワ音楽院作曲科に入りますが、この音楽学校時代のショパンは模範的な学生であるどころか、逆に担任なかせでした。「いつも勝手にする」と苦情が洩らされました。しかしそんな時、作曲を指導していたエルスナーは、「彼には好きなようにやらせなさい。彼には並々ならぬ才能があるのだから」と言って取り合いませんでした。このような良い師に恵まれたショパンは教科書の枠を超えた新しい響きの世界を開くことができました。しかし彼は天才ほどではなかったし、家族も彼にそれほど大きな期待をかけていたわけではありません。彼自身も大音楽家になろうなどとのおうそれた野望は持っていませんでした。が、熟練した有能な音楽教師にはなりたかったようです。

少年期の二人の展開もかなり対照的ですね。サンドは社会や政治に関心を示し同時に文学にも傾倒し、将来は物書きになろうと決意します。イギリスの小説が大きな刺激になったようです。一方、ショパンは社会や政治には一切関心を示さずポーランド民謡に魅せられ音楽一筋に進んでいきます。ショパンはもうこの頃から詩人と呼ばれていたのですね。

二人の青年期 では次に二人の青年期を見ましょう。

サンドの青年期 サンドのパリの寄宿学校生活は14歳から16歳までで、その後ノアンに帰りしばし祖母と暮らしましたが、祖母が亡くなったためノアンの館の跡取りとなりました。

結婚 それから一年して18歳の時にサンドは田舎貴族の私生児で後に男爵となる、9歳上のカジミール・デュドゥヴァンと深い愛情もないまま結婚しました。彼は陸軍士官学校出身の少尉でしたが、サンドと知り合った頃は軍務を棄てて法律を学んでいました。翌年には息子モーリス、数年後には娘ソランジュが生まれますが、サンドのような知的で博学な妻が、狩りだけが趣味の凡庸な夫とうまくいくはずがありません。

作家デビュー 激しい夫婦喧嘩の末、サンドは夫に扶助料を払わせ、サンドが一年の半ばをパリで過ごすことを認めさせました。そこで自由を求めパリに出て文筆生活を始めました。サンドの26歳の時です。この時、サンドの生涯を決定的に転換させたのがベリー地方出身の文学青年、7歳年下のジュール・サンドーでした。この青年と恋仲になり、夫と大喧嘩したサンドは夫と子供たちをノアンに残してパリに出て彼と同棲しながら、サンドーと合作で小説を書き始めました。この時、用いたペンネームがジュール・サンドーをもじったジュール・サンドでした。翌年1832年、ノアンに帰ったサンドは、小説『アンディアナ』を書き上げ、ジョルジュ・サンドの名前で出版しました。サンドという姓は変えず名だけをジョルジュとしました。ジョルジュにはベリー地方の人という意味があるそうで、最初はフランス語でGeorgesと綴っていましたが、まもなく英語風にsを落としてGeorgeとしました。
いよいよサンドは作家として成熟していきました。そのためには人間として成熟しなければなりません。大勢の有名人との付き合いが始まりました。作家のバルザック、音楽家のリストやショパン、画家のドラクロワらの芸術家、ほかに宗教家、思想家、政治家、学者などさまざまな人々と付き合いました。

社会的正義の芽生え そのうちに彼女の目は労働者、農民そして多くの女性たちの、恵まれない生活に向けられるようになりました。貧富の差や社会的不平等を批判し始めました。改革への熱意を盛り込んだ作品、後に社会主義的小説と呼ばれるものを多く発表しました。

ショパンの青年期 ショパンの中に詩人を発見したルイズ・チェトヴェルティンスキー公妃のサロンはワルシャワの中で最も溌剌とした、洗練されたサロンの一つでした。ショパンはここで名流貴婦人や妖艶な美人たちの踊る姿に出会いました。当時、ワルシャワは北のパリと称され、社交界は華麗と洗練と雅致で鳴り響いていました。ここにヨーロッパ中の名士が集まってきたのは当然でした。ショパンはここで貴婦人方のステップをよく観察しそれを演奏で表現しました。彼女らは踊りが高潮してくると熱情的になり、その中に秘密の優しさをのぞかせました。ショパンはこうしてポーランドの詩的理想を把握したのです。
この詩的理想とはどういうものだったのでしょうか。知りたいところです。

ポーランド時代のショパン 冒頭で述べたようにショパンは 20歳の時に祖国ポーランドを離れウィーンに向かいましたが、それまでの20年間こそショパンにとってもっとも貴重な歳月でした。ピアノを勉強し習作的な作品を多く作曲し、自分の才能をあらゆる角度から検討しました。新しい時代に生きる芸術家としての自分を見つめ考えました、子ども時代から子ども心をとらえて離さなかった民族音楽の美しい旋律は、クラシック音楽に見られない風変わりなリズムで、不思議な音の響きでした。そして何よりも即興の楽しさがありました。

ポーランド民謡 この魅力溢れた民族音楽が、幼年時代からショパンの周りには満ちていました。民謡の宝庫と言われる東欧、その中でも美しい旋律で有名なポーランドの民謡が彼の心をとらえて離さない最初のものだったようです。非常にはっきりしたリズムをもつポロネーズも、悲しげな旋律をうたいあげるクーヤヴィアックも、陽気なオペレッタも、彼の心に直接響く楽しい音楽でした。ショパンがこうした民謡の形を借りて作曲する時、本当に自由に、気の向くままに作曲できました。少年時代から15、6歳までの間に書いたマズルカやポロネーズは、それを如実に示しています。

創作の自由 この前半20年の生涯に、ショパンが学んだ最大のことは、創作の自由だったと考えられます。ポロネーズやマズルカのように、本来民謡から出たものは非常に感覚的で、作曲上の形式的約束はなく、一番とりあげやすかったようです。彼の心には次々と美しい旋律が浮かび、彼の創作欲をいやが上にも高めました。その美しい音の流れに生命を与えるのに形式的約束ほど不自由なものはありません。そのために、彼は自分のひかれる民謡の形式や小品の中に、知らず知らずの間に彼の道を開いていったと考えられます。彼にとっては、在来の形式上の規則を踏む重要さよりも、彼の精神の要求に従うことの方が創作に通じていました。ロマン派のピアノ音楽の特色は、大作ではなく小品であるともいわれていますが、ショパンは無意識に、創作欲のままにその方向に進んでいったのだと考えられます。

民族音楽の美しさ ショパンは全く多くのことを民族音楽から学びました。南部のカルパチア山麓から北のバルト海に広がる肥沃な土地に恵まれたポーランドは農業国としてその歴史を築いてきました。ポロネーズ、マズレック、クーヤヴィアック、クラコヴィアックなどは、そのポーランドの農民たちの間で、長い時間をかけて作り上げられた代表的な民族音楽です。それらは美しい髪飾りや、きらびやかな胸の装飾など地方独特の民族衣装のように各地方の特色をよく表わしたものでした。

ワルシャワの音楽 ワルシャワの町には、各地から集まった人たちが住んでおり、ショパンも、幼い時からこれらの音楽に触れて育ってきました。

農民の音楽 しかし、ショパンが旅先でふと耳にした農民の音楽は、ワルシャワのそれとは違った味わいを持っていて、かれの興味をひきました。作曲のテキストにもなく、洗練されたワルシャワの人間にはついぞ聞くことができない、農民たちが耳から耳に伝えてきた原始的とも思える伝統の生の姿がありました。粗雑で、野生的で、なんとなく積み重なった音の集合、いきあたりばったりの音の重なりが和声であり、そのくせ不思議な音効果として彼の心に語りかけました。こうした民族音楽の中から、即興性、テンポの変化、リズムの変化のおもしろさ、旋律的特徴、ルパートのあやしい魔力を引き出し、それを自分の音楽形式にまとめあげたのです。ショパンの音楽の生命とされている自然なメロディーの流れは民謡の「うたい」に極めて強く影響されたといえます。その上民謡は、即興的性格をそなえていますから、演奏者のその時の気分や、その場の雰囲気のままに自由にテンポを早めたり、遅くしたりするばかりか、アクセントの位置も変えてしまいました。このおもしろさがショパンを傾倒させるに十分な要素を持っていたのです。

ショパンの芸術音楽 彼は、それぞれの民謡のもつ特徴的なおもしろさを抽出して、芸術的に高め、在来の音楽にはなかった分野を切り開きました。それは民族音楽の香りこそ高いが、もはや民族音楽ではなく、彼の才能が自由に花開いてピアノによって生命が与えられたショパンの音楽となりました。彼が民族音楽の形式を借りて築いたショパン独自の音楽の世界です。幻想的な、あるいはロマン的な情緒に溢れた彼の詩の世界へと誘う音楽です。ショパンは、まったく多くのものを民族音楽から受け取りました。それから受けた影響は、ポロネーズやマズルカにとどまらず、彼の創造力の血や肉となって、ソナタや幻想曲を含めた彼の全作品に及んでいます。

ショパンとサンドの運命の出合い 1835年ごろになると、サンドはノアンに暮らす夫とますます険悪な関係になってきます。当時のフランス民法では離婚は不可能でしたが、サンドは夫との正式な別居を求めて訴訟を起こします。サンドが音楽家ショパンと知り合ったのはこの頃です。二人が急速に親しくなるのは1838年からですが、そのことはまた後述するとして、ここからサンドとショパンが引かれ合った状況をみてみたいと思います。短編、長編と次々に作品を発表していく作家ジョルジュ・サンドは、時々男装をしてパリの街を闊歩し葉巻を燻らしていました。するとあれはデュドゥヴァン男爵夫人だよと知られるようになり否応なしに有名人になってしまいました。

サンドが見たショパン その頃のサンドはショパンの友人、リストの愛人、マリー・ダグー伯爵夫人から、ショパンという風変わりな芸術家のことを度々聞いていました。サンドはショパンの技能よりも、詩人的天才としての噂を多く聞いていました。実際にショパンの作品に接するに及んで、その作品の夢のような甘さ、隅々まで充ち満ちている素晴らしい高貴な心情、豊富な感情などにすっかり驚いてしまいました。ショパンは自分の詩情を岩や大理石に刻んだような、どっしりとした表現はしません。その代わりに、作品からあらゆる重さを取り去り、輪郭を拭い、蜃気楼に映る空中楼閣のように大地から切り離して、雲霞のように浮遊させました。この事を知ったサンドはショパンの作品の捉えがたい軽快性にますます惹かれました。そしてショパンの中に見る理想の姿にサンドは心を捉えられました。さらにサンドは、ポーランド婦人が先頃の戦争で示した犠牲的精神について彼らの同国人が熱狂的に語るのを度々耳にし、それと芸術家ショパンから受けた霊感から、女性は男性への依存と劣等感を棄てて、男性の友として高い知性を持たなくてはならないと思うようになりました。

 ショパンの感受性 ショパンの音楽がこのように霊妙な作用を及ぼすのは、彼の調べの中に、乙女らのはじらいと情熱のひそやかな囁きが感じられるからです。彼は繊細鋭敏な耳でこの囁きを捉え、象徴的に、しかも誰にも容易にわかるように、音楽に表現しました。ショパンは、乙女達がただよわせている清純な雰囲気の中に、天国の幻影の輝きと、虚構の幻影のあせゆく陰を認めました。かれはそこに充満している、焼き尽くすような情熱の意味を読み取りました。彼は人間の心の闇の中を、これらの情熱が衝突し合いながら飛び交う様を眺めました。また優美で、平静で、魅力に溢れた彼女達の整った容姿や動作の陰に、絶え間なく動揺し興奮する心が隠されている有様を見ました。

ショパンの霊妙な魔法のペンの下から音楽という形で創造されたひとつの理想が流れ出ました。この理想は、ポーランド人にとっては真実であり、かれらの心の中心をなす実在、これこそがポーランド語でいうJALで、他国語には翻訳できない、ポーランド独特の、ポーランド国民全体も、個々の人間も、持ち合わせている感情です。ショパンの音楽には、こうしたポーランドのいたる所に感じられている情緒が、極めて自然に流れていました。漠然と断片的にではありますが、ポーランド人すべてが心の中にこれらの感情を持っていました。

 サンドの感受性 一方、サンドはどのような感受性に富んでいたのでしょうか。普通ではちょっと気がつかないような優しさ美しさをサンドはよく発見したものでした。無限の広がりを展望する事が好きだったサンドは蝶の羽の色合いの美しさや野苺の上に張られた羊歯の天蓋の均整の取れた美しさに目を見張りました。サンドには苦しい恋に悩む蝮の地を擦る音が聞こえたり、長い葦や水草を分けて流れる小川のせせらぎが聞こえてきました。野や沼を飛んで行く鬼火の跡を追い、その妖艶な舞踏に誘惑されました。また蟋蟀やそのともがらの奏する音楽に耳を傾け、森の国の翼を持った住民達の名前はもちろん、翼の色から歌声、鳴き声まですっかり知っていました。

サンドは、地球上かあるいは他の惑星に実在する世界、我々が暗い森に沈む月の光を見て想像するあの遠い国へ、自らの翼を駆って翔んでいく男性と知り合いたいと願っていました。そのような美しい国を見出した以上、それを見棄てず、現実の世界へは心も想いもなんら振り向けない男性、そんな男性をサンドは自らの目で見たいと思っていました。そこで出会ったのがショパンです。サンドにはショパンが形而上的な天上の世界に接した不可能なものを夢のごとく追い求める芸術家に映りました。サンドはそのショパンに会いたくてたまらなくなってきました。

ショパンから見たサンド 他方、ショパンは一般の女性を遥かに凌駕し、女性の知らないような事を、デルフィの巫女のように語るサンドに少々恐れを懐いたようです。それでショパンは長い間サンドと会おうともしませんでした。しかしサンドとショパンが互いに相識るに及んでまもなく、ショパンはそれまで意固地に懐いていた閨秀作家への偏見をひとたまりもなく吹き飛ばしてしまいました。

 非凡なロマンティスト同士  私はここに非凡なロマンティスト同士の奇蹟的遭遇を感じます。ショパンがポーランドの農民の中に発見し音楽にした味わいは、サンドが幼少の頃ノアンの野原で発見しその後田園小説にした味わいの多くと共通しているように見受けます。これがショパンとサンドが引き合う基本的な要素だったのではないでしょうか。二人を解くキイーはここにあったと私は見ています。

この後ショパンとサンドは、サンドの子供とショパンの健康回復を祈って数か月、マホルカ島を旅し幾多の困難に遭遇しますが、非凡な二人にはそれがむしろこの現世離れした喜びにもつながったようです。またこの旅を通じてサンドはショパンに対し絶対的な母性愛的愛情を注ぎましたし、ショパンもまたそれに大いに感謝しています。その辺のことは、今回は割愛して、最後にサンドの都会観と田舎観にふれてこのエッセーの結びとしたいと思います。それはパリとペリーの比較だといってよいと思います。

1840年代のフランス サンドが過ごしたフランスの時代背景を眺めてみましょう。1789年に勃発したフランス革命は、「自由」「平等」を標榜し王侯貴族、領主、聖職者といった特権階級の制度崩壊に導きましたが、1830年にはその反動で王政復古を目論む七月革命が起きました。この波は1848年の2月革命まで続きますが、1840年代に入ると徐々に産業革命が興り否応なく従来の社会を変えていきました。ここに新たな階層が生まれたのです。

かつて存在しなかった技術やそれを利用した産業革命の進展で、金持ちの特権階級と多数の貧困層が生み出されました。持つ者はいよいよ富み、持たない者はいよいよ貧乏になりました。サンドが最も強調したのは、すべての基準が金銭にあり、金銭によって支配される傾向が日毎に増大していく現状でした。

個人、作家として円熟し始めたサンドは社会の不平等な現状を小説という形で告発していきました。1840年から46年にかけて発表した社会主義的小説は、パリから地元ペリーに帰ってきた男女の目を通してペリーを中心とした地方の現状を描いています。流通の便をはかるために整備された道路が地元の普通の農民たちにとってどれほど意味があるのか、地方に移り住み、工場を構えた新興ブルジョワたちが本当に地域の貧困層を救ったといえるのか、このようなことを小さな町、村を舞台にしながら遠くパリを意識させる問題提起をしています。

物語は「帰ってきた青年」に焦点が当てられ、その視線はもう二度とパリに向けられることがありません。なぜなら、厳しい自然環境と大都会パリを比較するとき、「大自然」の根源的な意味と、この自然を体現して生きる「自然の人々」の生命力を直観的に理解したからです。野生の自然の美しさと都市と住民の醜さを対照的に取り上げました。パリからペリーへ帰ってきた青年によって再発見された本物の地方・田園・自然とその価値をペリーの姿の一面としてサンドは描きました。

田園小説四部作に登場するのはその地に住むごく普通の人々です。かつての貴族階級に属する人々はまったく描かれていません、作品中に首都パリへの言及はまったくなく、あたかもパリが存在しないフランスであるような印象を与えますが、サンドは本当にパリを意識していなかったのでしょうか。むしろパリを意識的にはずした理由があったように考えられます。

サンドは、農民たちが真に偉大な自然と直接つながり、美を直観的に理解できる存在だと認識しています。彼ら農民は日々の生活の重圧に苦しんではいますが、美を直観する能力はまったく失っていません。ただ語る言葉をもたないだけです。都会を知り、文明化されたゆえにシンプルな美への直観力を失い、自然を瞬時に感じることができなくなった人間たちをサンドは描いています。ここに描かれているのは農民生活の悲惨さや苛酷さではなくて、人間の持つ根源的な生命力の純化された姿です。その意味で田園四部作はユートピア的です。都会にとっては田園地帯は単に癒しの庭であるだけでなく、時の移ろいをはるかに越えた宇宙的生命力とでも表現できる強い力の磁場であるとサンドは訴えています。

私は過去2回のノアンへの旅を通じ、都会の雅と田舎の鄙びが人間には必要だと説いてきました。しかしサンドのこの主張を聞いた今、パリの豪華な王宮も華麗なエッフェル塔も、その煌びやかな夜景も色褪せてきました。それよりもペリー地方の真っ暗闇の中でその姿も現さない森の、木々の頭上に輝く孤高な月の光に魅せられています。これはショパンの曲にもつながる美ではないでしょうか。

今回の旅でゆっくりとノアンはじめラ・シャートルといったペリー地方のよさを皆さんといっしょに味わおうではありませんか。     おわり

中西隆夫(2019.6.29)